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日和美がそれらを宛てた相手は萌風もふ先生だ。
そう言おうとした日和美に、信武が溜め息まじりに小さく舌打ちをして。
「なぁ、……まだ分かんねぇの? 俺が! お前が愛してやまない萌風もふなんだけど」
吐き捨てるようにそう言ったら、信武の腕の中で日和美が明らかに硬直したのが分かった。
「立神信武の裏ペンネーム。それが萌風もふだ」
日和美を抱く腕をそっと緩めると、信武は日和美の顔を覗き込んだ。
***
信武に真正面から顔を覗き込まれた日和美は、頭の中がパニック状態。
「えっ。でも萌風もふ先生は女性で……。し、信武さんの編集さんじゃぁ……?」
昼間信武のサイン会の時、信武の後ろで彼の世話を甲斐甲斐しく焼いていた担当編集者は、髪型や服装の雰囲気こそ違えど、日和美が先日信武と喫茶店でお茶をしていたところを目撃した相手――萌風もふ先生に他ならなかった。
公私共に(?)親密げに見える二人を見たからこそ、自分はショックを受けたのだ。
なのに、信武が萌風先生とはどういう意味だろう?
理解できないままに呆然と信武を見詰めたら、信武が何とも言えない顔をして笑った。
「あいつは萌風もふの影武者だ。……だって恥ずかしいだろ!? 男の俺がティーンズラブで萌えキュンなの書いてるとか」
視線を逸らせるようにした信武の耳が真っ赤になっているのを見逃さなかった日和美だ。
「立神信武は……官能作家だって異名もあるんだぞ?」
そっぽを向いたままポツンと落とされたセリフに、日和美は先日読んだ『ある茶葉店店主の淫らな劣情』や『誘いかける蜜口』の本文を思い出した。
確かにあれを書いている立神信武先生と、女性向けTLを書いている萌風もふ先生が同一人物だと言われたら、違和感しかない。
(文体だって全然違ったのに)
そのくせ、何故かとても読みやすくて懐かしいと感じたのもまた事実。
そこでふと、Webpediaに書かれていた、「立神信武は作品によってまるで別人が書いたみたいに筆致が変わる作家として有名」だという文言を思い出した日和美だ。
***
「依頼があって二十代の女性向け作品を書こうってなった時にな、さすがに立神信武のままじゃ障りがあんだろってことになって……。急遽考えたペンネームが萌風もふだ」
――愛犬ルティシアが、モフモフしていて可愛かったから。
まさかその名で長いこと二足の草鞋を履き続けることになるだなんて思わなかったから、ペンネームの由来はそんな単純で、どうでもいいものだった。
日和美が記憶喪失だった自分に、フワフワな印象を理由に不破譜和という名を与えてくれた時、何だかしっくりきた気がしたのは恐らくそう言うことだったのだ。
日が経つにつれて、失っていたはずの不破だった頃の記憶も部分的に蘇りつつある信武は、バツが悪そうな顔をしてそんなことをゴニョゴニョと付け加えて。
それを聞かされた日和美も、信武の煮え切らない物言いから、語られていることが真実なのだと少しずつ理解が追い付いてきた。
「『犬姫』だけ別の出版社から本が出た絡みで実写の著者近影が欲しいって言われてな。さすがに俺の顔はメディアに出過ぎちまってたから苦肉の策で茉莉奈……、えっと……今日いた担当編集の女な? ――まぁ従姉なんだけど……あいつに代理を頼んだんだ」
「いとこ……」
どこか安心したように日和美がつぶやくのを見て、信武もホッとして。再び過去の出来事に思いを飛ばす。
〝立神信武〟は玄武書院の専属作家だが、彼の裏ペンネームが〝萌風もふ〟であることは業界にもオフレコだったから。
よその出版社からオファーがあったとき、断り切れなかった。
結果玄武でなら何とかなるアレコレがうまく回らなくて。
版元の要望通り、『何でも良いから萌風もふの顔になりそうなお前の写真をくれ』と頼んだ信武に、茉莉奈も、普段通りの格好では恥ずかしかったのか、わざわざ和装をして髪を下ろし、まるで日本人形のような大和撫子然としたコスプレ姿のポートレートを渡してきた。
『変装よ、変装!』
吐き捨てるみたいにそう言っていたが、日和美に見破られてしまったのだから果たしてうまくいっていたのかどうか。
「茉莉奈があんなのはもう二度とごめんだって断固拒否してきたからな。萌風もふも玄武書院の専属で他からのオファーは断るってことになって……ついでに玄武書院から出す本は萌風でデビューした時に『ゆらたう』で使った、モフモフイメージで俺が描いた超絶テキトーな落書きが共通の自画像ってことになったんだわ」
一冊だけ別レーベルから出版された『犬姫』以外の本に写真が載らなかったのはそう言うことだったのだと知った日和美は、何だか色々繋がって、ただただ驚くばかり。
ついでにあのほのぼのとした綿玉みたいなゆるキャラ風自画像が、信武の手によるものだと言うのにも二度びっくりだ。
「あ、あの……萌風先生の自画像ってホントに信武さんが……?」
何の気なしにつぶやいた日和美へ、信武が緑茶飲み比べセットの箱を手に取ると、その内側にサラサラッと見慣れたゆるゆる毛玉キャラを描き上げてしまう。
それを見て、萌風もふ先生はやはり目の前にいる信武なんだと妙に納得させられてしまった日和美だ。
「『犬姫』も版元がつぶれちまって長いこと宙ぶらりんだったのを玄武が権利を買い取ってな。電子書籍版でのみ出し直したんだが……そん時に著者近影もこのイラストへ差し替えた。日和美が倒産した出版社から出てた文庫版を持ってんのはいつももらってるファンレターで知ってたから……お前と接点を持った時点で茉莉奈が萌風の顔だってことはバレちまうだろうな?とは思っちゃいたんだよ」
喫茶店で、茉莉奈から社に届いたファンレターや、社屋内に保管していた『ゆらたう』の初版本を受け取っている所を目撃されたのは想定外だったが、信武と一緒にいれば、いずれ日和美が茉莉奈と鉢合わせすることは十分予想できることだった。
そうなったとき日和美に萌風もふのこと、茉莉奈との関係性などをどこまで話すかずっと迷っていた信武だ。
結果、揺れている間はどうとでも言い訳が立つよう、茉莉奈が萌風もふ本人で、自分とは別人であるかのように日和美に話していたのだけれど――。
喫茶店で茉莉奈と打ち合わせをしていたところを見られ、否応なく日和美に拒絶された傷が癒え切らないままに今日のサイン会。
日和美に茉莉奈といる所を再び目撃されてしまった信武は、彼女の傷ついた表情を見て、全てを話さずにいることのリスクを思い知らされた気がして。