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凪はスマートフォンの画面に視線を移した。それから通知がいくつも届いているラインを開いた。
前職の後輩だったり、友達だったり。その中に千紘の名前もあった。
貸切続きだったから、このところ千紘とも会っていなかった。客と会っている間はほとんどスマートフォンを触らないし、当然プライベートな連絡も取らない。
だから千紘との連絡もこのところしていなかった。既読にしたまま返信せずに5日が経った。忙しいと分かっているからか、追加でメッセージが届くこともなかった。
『次いつ会えるかわかったら教えて。店に来る方が早いかな?』
じっとそのメッセージを見つめた。この先もずっと予約が埋まっていて千紘と会う時間などない。
そう一言返信するだけでいいのにそれすらもできなかった。次の美容の予約は1週間後。本当に美容院へ行く方が早い気がした。
最後に千紘に会ったのはいつだったかと考える。随分昔のことのように感じた。あと1週間すれば自然と千紘には会うことになる。
けれど、千紘は連絡もくれなかったと拗ねた顔をするんだろうなと想像して凪はふっと笑った。
千紘の反応がすぐに頭に浮かぶのも、色んな表情を見るようになったからだ。このまま連絡せずにいれば寂しそうな顔をするんだろう。
でも仕事中に連絡すれば、それはそれで「仕事中なのに私用に時間を使うなんて」とか言い出しそうだった。自分は指名客を放ったらかして、いつまでも俺のところにいるくせに。なんて文句を言う自分まで想像できてそんな何気ないやり取りが平穏に感じた。
……ヤバいな。仕事詰め込み過ぎたかも。休みも取らずにずっと仕事ばっかしてたから……。来月は週1くらい休むか。
そう久しぶりの休みを組むことを考えたら、少しだけ気持ちが楽になった。今までは家で1人でいると余計なことを考えて、これなら仕事してる方がマシだなんて思えたのに今はその余計なことを考える暇も必要だと思えた。
とりあえず辞めないまでも、体を休ませることが優先だなと重たい息を吐き出した。
「……快くん?」
もそっとベッド上で音がする。女が起きたようで顔だけを持ち上げた。虚ろな目で凪を探す。
「おはよう。まだもうちょっと眠れるよ」
凪はスマートフォンをテーブルに置いて、ベッドへと戻った。優しい声色で女の髪を撫でる。パサついた髪が指に引っかかった。凪は無表情でそれを解く。
明るい髪色が眩しいが、根元は黒く目立っていた。千紘の髪はあんなに明るくても綺麗なのに……凪は不意にそんなことを思った。
傷んだ髪をそのままにしている女性は多い。そんなの見慣れているはずなのに、なぜだか汚らしく見えた。
千紘の髪と比べたら、ほとんどの人間はあれに劣るだろうと思えた。それほどまでに念入りに手入れされているのだ。
比べたところで、目の前にいるのは今まで時間を共に過ごした客でしかないのだから仕方がないこと。そう割り切ろうと凪は気持ちを切り替えようとする。
しかし、女は凪の腕を掴んで「今誰に連絡してたの?」と尋ねた。
「ん? してないよ。時間の確認してた」
「嘘だよ! どうせ女でしょ!」
客はガバッと凪との距離を詰めて、目を見開いた。異常な熱意が伝わってきて、凪は心の中でうわ……と呟いた。
「違うよ。一緒にいるのに他の子に連絡なんかするわけないでしょ」
「私が寝てたから……寝てたから、他の子に……」
女はブツブツと呟きながら頭を抱えた。凪は勘弁してくれと顔を歪めながら、女を抱きしめた。
「不安にさせてごめんね。気持ちよさそうに寝てたから起こしたくなかったんだよ。寝顔可愛かったから見てたいと思って」
「……何でそんなこと言うの」
「本当だよ。誰とも連絡とってない。ほら、もうちょっと一緒に寝よ?」
凪はそう言って一緒にベッドへと潜り込む。
「やだ、寝ない。寝たらまたその隙に他の女と連絡取るかもしれないじゃん!」
「しないって。大丈夫だよ」
「ねぇ、彼女じゃないよね!?」
「彼女なんていないって。この仕事してたら彼女は作れないよ」
「……私は? 私とは付き合ってくれるって……」
「セラピスト辞めたらね」
「いつ辞めるの?」
「まだもう少し」
「私のこと好きじゃないの!?」
「好きだよ。でも、俺まだ頑張りたい。俺のこと好きなら応援してほしい」
「応援なんかできないよ……。好きな人が他の女の子とエッチなことしてるのなんか嫌だよ……。同じ気持ちなのになんで付き合えないの?」
女はとうとう泣き出した。うわーっと大声で叫ぶ。凪はやっぱり会わなきゃよかったと後悔でいっぱいになった。
凪はこれがプライベートなら言いたいこともはっきりと言えるのに……とうんざりする。仕事であるからには、それなりの接客をしなければならない。
そうわかっていてももうこういう類の客は面倒なだけだと思った。昔ほどガツガツ稼がなくてもいい。そろそろ休みを取ろうとも思ってたんだ。
貸切りをしてくれるような金のある客だが、今は金よりも安定した時間が欲しかった。
優先順位を考える時がきたみたいだな……。
凪はそう思いながら「今すぐ付き合いとか、セラピスト辞めてって言うなら、俺はやめておいた方がいいと思うよ」と言った。
「え?」
今まで何度となく宥めてくれたいつもの凪とは違う言葉に、女は体を硬直させた。
「俺はそれには応えられない。辞めたら付き合えるかもねって言ったけど、約束はできないよ。好きだけど、今辞めることもできない」
「なんで!? だって私のこと好きならさっ」
「俺、今月収100万以上あるけど、辞めたらゆきちゃん毎月それ俺に払える?」
「え?」
「だって俺、これで生活してるんだよ? 辞めたら収入減るし、昼職に戻ったら今と同じだけ稼げなくなる。俺にセラピスト辞めてって言うってことは、俺の生活保障してくれるってことだよね?」
「それはっ……」
女は顔を引きつらせて凪の目を見つめた。彼女になったらお金だけの関係じゃなくなる。今だって毎月100万近く使っているのだ。それが彼女になったら、今までの彼氏みたいに自分のためにお金を使ってくれたり、プレゼントしてくれたり、もちろん時間を全て捧げてくれるものだと思っていた。
それなのに、彼女になっても尚お金を使わなきゃいけないなんて納得ができなかった。
「何年くらい続けられそう?」
「えっと……」
「俺、お客さん全員切っちゃったらゆきちゃんが別れたいってもし言った時、今の位置に戻れない可能性の方が高いんだけどさ、何年間くらい保障してくれる?」
「私、彼女になるんだよね……?」
「うん。付き合うならね。でも俺、セラピストだから。その辺の男と付き合うのとはわけが違うよ」
「うん……」
「できる? 毎月。仕事じゃないから、こんなふうに24時間一緒にいられる時ばっかりじゃないし、昼間の仕事始めたら忙しくて会えなくなるかもしれないけど」
女はさあっと青い顔をした。今は金を払って会っているから、自分の都合のいい時間で会えるが、彼氏になったら断られることもある。仕事で疲れてるから今日は会えないと言われる可能性もある。それでも毎月100万以上は支払わなければならない。
「それは……彼女なの?」
「違うの? 俺が思ってる彼女とゆきちゃんが思ってる彼女の理想像が合わないなら、やっぱり付き合うのは無理そうだね。俺はやめといた方がいいかもね」
穏やかだが、どこか冷たさを凪に感じた女は、いつの間にか泣くのもやめてぎゅっと唇を噛んだ。
対して凪は、このコースが終わったらこの女を出禁にして切ろうと決めた。