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一生すれ違って一生愛し合ってる中太♀が大好物。
午前二時、静まり返ったマンションの一室に、重たい玄関の鍵が開く音が響いた。 中也は極力足音を立てないように靴を脱ぎ、コートをハンガーにかける。リビングの明かりは落とされていたが、ソファの端に置かれたスタンドライトだけが、ぼんやりとオレンジ色の光を放っていた。その光の輪の中に、丸まって眠る小さな人影がある。 太宰だった。 テーブルの上には、ラップをかけられたハンバーグと、少し乾燥してしまったサラダ、それから丁寧に手書きされたメモが置かれている。
『中也、おかえりなさい! 今日もすっごくお仕事頑張ったんだね。偉いよ、世界一かっこいいよ。でも、冷めちゃう前に食べてね。あと、もし起きてたら、ちょっとだけでいいから……ううん、なんでもない。大好きだよ』
最後の一行には、何度も書き直したような跡があった。 中也はそれを手に取り、ふっと短く息を吐く。胸の奥が締め付けられるような感覚。最後に彼女の開いた瞳を見たのは、一体いつだっただろうか。この一週間、中也は彼女が目を覚ます前に家を出て、彼女が疲れ果てて眠りについた後に帰宅する生活を繰り返している。
「……わりぃな」
届かないと分かっていても、独り言が漏れた。 中也は、太宰を働かせたくなかった。彼女の細い指先が、荒れた事務作業や接客で傷つくのを想像するだけで耐えられなかった。
かつて両親への挨拶を済ませ、婚約指輪を彼女の薬指に通したあの日、中也は誓ったのだ。この女を、一生、何一つ不自由のない場所で笑わせてやると。そのためには、今が踏ん張り時だった。昇進がかかった大きなプロジェクト、増える残業、積み上がる責任。それらすべては彼女との、温かな未来を買い取るための対価だと思っていた。
しかし、中也が買い取ろうとしている「未来」のために、二人の「今」が削り取られていることに、彼はまだ気づいていない。
翌朝、午前六時。 アラームが鳴る前に中也は身を起こす。隣のベッドでは、太宰がまだ深い眠りの中にいた。乱れた髪が頬にかかり、心なしか寝顔に寂しさが滲んでいるように見える。中也はそっとその頬に触れようとして、自分の指先が冷え切っていることに気づいて手を止めた。 起こしてはいけない。彼女は最近、夜中に何度も目を覚ましているようだった。自分を探しているのかもしれないと思うと、胸が疼く。だが、ここで甘やかしてしまえば、自分は仕事に行けなくなる。 中也は台所に立ち、彼女の朝食を用意する。
メモには短く『行ってくる。飯食えよ』とだけ記した。本当は、愛しているとか、寂しい思いをさせてごめんとか、書きたいことは山ほどあった。けれど、それを書く資格が自分にあるのか分からなかった。
中也が出て行ってから三十分後、太宰は目を覚ました。 隣の枕は、もう冷たくなっている。 太宰はそれを抱きしめ、中也の残り香を必死に吸い込んだ。微かに残る、彼が愛用している煙草と洗剤の匂い。それだけが、今の彼女にとって彼を繋ぎ止める唯一の、そしてあまりに頼りない絆だった。
「……中也、おはよう」
返事のない部屋に、掠れた声が落ちる。 キッチンへ向かうと、そこには彼の字で書かれた無愛想なメモがある。太宰はそれを愛おしそうに撫で、指先で文字をなぞった。
「飯食えよ、か。中也らしいね。でもね、中也。私はご飯よりも、君の声が聞きたいんだよ」
太宰は、自分でも分かっていた。自分は「かまってちゃん」なのだ。中也に愛されていると、言葉で、態度で、視線で、二十四時間確認し続けていないと、どこかへ消えてしまいそうになる。
中也が自分のために必死に働いているのは知っている。将来のこと、生活のこと、私の体調のこと。彼はいつも、言葉の代わりに結果を差し出そうとする。 けれど、太宰にとっての「幸せ」は、広い家でも、高い服でも、将来の貯えでもなかった。中也と一緒にスーパーへ行って、特売の野菜をどっちにするか悩んだり、バラエティ番組を見て笑い合ったり、そういう、なんてことのない「中也との時間」こそが、彼女の命を繋ぐガソリンだった。
「私だって、働けるのに」
太宰はトーストを齧りながら、独りごちた。 私が働けば、中也の負担は半分になる。そうすれば、中也はもっと早く帰ってこられる。二人で一緒に頑張って、二人で一緒に疲れて、二人で一緒に眠る。それがどうして、中也には伝わらないのだろう。彼はいつだって、私を「守られるべきお姫様」の椅子に座らせて、自分だけ戦場へ行ってしまう。 それは愛情なのだと分かっているから、太宰は強く言えなかった。彼の誇りを傷つけたくなかった。けれど、その優しさが、今の太宰には真綿で首を絞められるような苦しさに変わっていた。
その日の夜。太宰は決意していた。 今日こそは、中也が帰ってくるまで絶対に起きていよう。そして、ちゃんと伝えよう。
『中也、私、寂しいよ。本当に私のこと、好きなの? 好きなら、もう少しだけ私に時間をちょうだい』
そんなことを言えば、彼はきっと困った顔をするだろう。不器用な彼は、「好きだからこうしてんだろ」と、少し怒ったような声で言うかもしれない。でも、それでもいい。彼の声が、彼の温度が、今すぐ欲しかった。 夜が更ける。 十時、十一時。太宰は必死に眠気を堪え、ソファで背筋を伸ばしていた。
テレビの音は消した。スマートフォンの画面も閉じ、ただ、玄関の扉が開くその瞬間だけを待つ。 窓の外には雨が降り始めていた。冷たい雨の音が、部屋の静寂をより一層深いものにする。
十二時。中也はまだ帰らない。 太宰の心に、小さな不安が芽生える。中也は本当に、私のところへ帰ってきたいと思っているのだろうか。こんな、毎日泣きそうな顔をして待っているだけの女のところに、帰るのが嫌になってしまったのではないか。 中也はかっこいい。仕事ができて、真っ直ぐで、誰からも信頼されている。
彼にふさわしいのは、もっと自立していて、彼の背中を笑顔で見送れるような女性なのではないか。私のように、彼のジャケットの裾を掴んで「行かないで」と泣くような女ではなく。
「……中也……中也、会いたいよ」
涙がこぼれ、膝の上に落ちた。 一度溢れ出した感情は止まらなかった。太宰は顔を覆い、子供のように声を殺して泣いた。 どれくらい、そうしていただろうか。 不意に、カチャリ、と鍵が回る音がした。
中也は、リビングに入った瞬間に息を呑んだ。 いつもなら、ライトのそばで静かに眠っているはずの彼女が、床に座り込み、肩を震わせていたからだ。
「……太宰?」
中也が声をかけると、彼女は弾かれたように顔を上げた。その瞳は真っ赤に腫れており、涙の跡が幾筋も頬に残っている。
「中也……? ああ、中也だ……本物の中也だ……」
太宰はふらふらと立ち上がり、中也の胸に飛び込んだ。中也は反射的に彼女を受け止めたが、雨で濡れた自分のスーツが彼女を汚してしまうのではないかと、咄嗟に身を引こうとした。 けれど、太宰の指先が、狂おしいほどの力で中也の背中を掴んだ。
「離さないで、中也! お願い、逃げないで!」
「……逃げねぇよ。落ち着け、太宰」
「落ち着けないよ! 中也、本当に私のこと好きなの? どうして、どうして会ってくれないの? 私、中也に嫌われちゃったのかと思って、毎日、毎日怖くて……!」
太宰の叫びに、中也は言葉を失った。 嫌うわけがない。世界で一番、自分にとって価値のあるものは、腕の中にいるこの女だけだ。それ以外に、俺が身を削る理由なんてどこにもない。
「……バカか。嫌いな奴のために、誰がここまでやると思ってんだよ」
中也は、震える彼女を抱き締め返した。その体温は驚くほど低く、彼女がいかに孤独な夜を過ごしてきたかを雄弁に物語っていた。
「お前には、苦労させたくなかった。俺が頑張れば、お前は好きなことだけして、笑ってられるだろ。だから……」
「中也のいないところで笑ってても、それは本当の笑顔じゃないんだよ!」
太宰は中也の胸に顔を埋め、声を荒らげた。
「私がしたいのは、中也と一緒に苦労することなの。中也と一緒に、疲れたねって言い合うことなの。中也が私を愛してくれるのは嬉しいけど、私の『愛したい』っていう気持ちも、少しは認めてよ……」
中也は、ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。 自分は彼女を守っているつもりだった。彼女のために、すべてを背負っているつもりだった。だが、それは傲慢だったのかもしれない。彼女が求めていたのは「保護」ではなく「共有」だったのだ。
「……わりぃ。俺が、独りよがりだった」
中也は彼女の髪を優しく撫で、その額に唇を落とした。
「寂しい思いさせたな。……明日、仕事、午前休とるわ。だから、そんなに泣くな」
「……本当? 本当に、明日は一緒にいられる?」
「ああ。昼飯まで、ずっと一緒にいてやる」
太宰は、ようやく少しだけ安心したように、中也の胸で小さく頷いた。 けれど、中也は知っていた。プロジェクトはまだ終わっていない。明後日にはまた、早朝から深夜までの激務が再開されるだろう。生活の基盤を整えるためには、やはり自分は働き続けなければならない。 そして太宰もまた、予感していた。中也が明日、自分に時間を割いてくれるのは、あくまで一時的な「埋め合わせ」に過ぎないことを。彼は本質的に、自分を背負うことをやめられない人なのだ。
二人は、互いを心から愛し合っていた。 けれど、中也の「愛」は与えることに執着し、太宰の「愛」は受け取ることに飢えている。 二人の想いは、交わっているようでいて、実は一本の線の両端をそれぞれが懸命に引っ張り合っているような、危うい均衡の上に成り立っていた。 中也が太宰を寝室へ運び、ベッドに横たえる。久々に、彼女の温もりを感じながら眠る夜。 太宰は中也の腕の中で、彼の心臓の音を聞いていた。トク、トク、と刻まれる一定のリズム。
それは中也が生きている証であり、自分を愛している証拠だ。 けれど、太宰の心のどこかには、まだ消えない空洞があった。 明日、日が昇れば、またこの温もりは消えてしまう。中也は戦いに行き、自分は城に取り残される。 いつまで、この「幸せ」を続けられるだろうか。 いつまで、この「寂しさ」を耐えられるだろうか。 そんな不安を打ち消すように、太宰は中也の首に腕を回した。
「ねぇ、中也。大好きだよ。愛してる。……ずっと、そばにいてね」
「……分かってるよ。お前以外に、どこへ行くってんだ」
中也は太宰を強く抱きしめ、暗闇の中で目を閉じた。 二人の薬指に光る指輪は、確かに彼らを結びつけている。けれど、その絆の強さが、皮肉にも二人を苦しめ、すれ違わせ、それでも離れることを許さない。
一生、満たされることのない渇望を抱えたまま。 一生、互い以外に居場所を見つけられないまま。 二人は、この「幸せな地獄」を歩き続ける。
窓の外の雨は、いつの間にか止んでいた。 けれど、夜明け前の冷たい空気は、二人の間にある埋まらない溝を、そっと撫でるように通り抜けていった。