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ハーゴ市を後にしたユカリたちは追っ手を警戒し、街道から遠く離れる。実際のところ、追跡されている様子はなかったが、迷子のように取り残された寂しい白樺の林に隠れて一夜を過ごした。夏の熱はその僅かな切れ端さえも南に追いやられ、秋風にしては鋭く刺すような寒さが毛布と焚火とベルニージュの結界を遠巻きに恨めしげに眺めている。
その一夜の間にベルニージュは封印の魔導書を調べ上げ、お道化る者の協力もあっていくつかの法則はすぐに判明した。
最も重要なことは、その札を貼り付けると貼り付けられた物と者は、その封印の中に封じ込められているらしい魔性の存在に乗っ取られるということだ。
お道化る者の魔導書が人形に貼られていたことを思い出し、ユカリは白樺の一つに封印を貼ってみたのだった。すると白樺に貼られたお道化る者、あるいはお道化る者の貼られた白樺は形を変えて、初めて見た時の道化師のような姿に変身した。白樺で出来た人形のような見た目になったのだ。
「意思を持つ魔導書か」ベルニージュは白樺の肌のお道化る者を見つめながら呟く。「ユカリ、確か前にも一つだけあったんだよね?」
「うん。形式は似てるかも。一々叫ぶ必要がないのは良いね」とユカリは懐かしい微笑みを浮かべる。
零れ落ちそうな星々の下、既に眠りに就いたグリュエーと毛皮を有するユビスを除いて、毛布にくるまって焚火を囲む一行に対し、幾匹かの狐の視線、そして月の光を浴びながらお道化る者はその半生と共に知っていることを全て話してくれた。
「という訳で溢れんばかりの精力に突き動かされる十代の若者の如く反骨精神に溢れる者でも封印を貼った者の命令には逆らえないのです」お道化る者は焚火を背に演説を打つ。「嗚呼、憐れなるかな、魔性の者ども、魔導書として生まれども、強大な力を持ってなお、支配に甘んじ、苦しみの生を生きた者も数多くいるそうな」
強力な力を持った上で命令に逆らえないならば道具のようにこき使われてきただろうことは想像に難くない。ユカリは百一人いるという魔導書の魔性たちに憐れみを覚える。
「道化師など悪用できるのか?」ソラマリアが不躾に尋ねる。
お道化る者は笑みを崩さずに答える。「人倫に悖る使い方をしていた彼ら自身は悪用しているつもりなんて無かったかもしれないけど。腕っぷしの良さそうなお姉さん? 転がる死体の全てが満面の笑みを浮かべている戦場は経験したことある?」
ユカリはその光景を想像し、後悔する。悲鳴の代わりに笑い声が溢れ、涙を流す代わりに笑顔が綻んだところで惨憺な戦場がましになるわけではないだろう。
「……いや、ないな」ソラマリアは頭を下げる。「無遠慮だった。非礼を詫びる。すまない」
寒々しい空気を変えようとユカリは話をずらすべく慎重に問いかける。
「救済機構はどうだったんですか? 裏切ったってことはそういうこと?」
「うーん。まあ、それほど待遇は悪くなかったかな」腕を組んで渋い顔をしつつも、お道化る者は素直に答える。「こき使われていたけど虐げられていたわけじゃない、という感じ? あたしたちの力に見合う扱いとは言えないけどね」
「普通に魔術師として生きるだけでもっといい生活ができるだろうね」とベルニージュが付け加える。「誰かに支配されてないだけずっとまし」
「まあ、でも機構に対する思いは人それぞれ、帰依した奴もいたとかいないとか。この呪わしい身の上では誰かに縋りたくなる気持ちも分からないではないよ。ま、あたし自身は、単につまらないからやめたんだけど。女の尻を追いかけるのは趣味じゃないの」そう言ってお道化る者はユカリに目配せする。「他に知りたいことは?」と促され、ユカリが白紙だけの魔導書を取り出す。
「これは何?」
お道化る者は首を横に振る。
「それは初めて見たよ。それも魔導書? あたしたちに関係してるの?」
「そういえば」とレモニカが眠たげな眼差しで切り出す。「以前、聖ラムゼリカ焚書寺院にグリュエーと共に潜入した時にアンソルーペが一〇一白紙文書を手に入れたのだという話を聞きましたわ。数が一致しますわね」
「確かに、表紙背表紙を除いて二百二頁ある。つまり百一枚の紙が綴じられていたのかも」とベルニージュが説明する。
「じゃあ封印をこれに貼っていけばいいのかな?」とユカリはぱらぱらと一〇一白紙文書をめくりながら言う。
「それがあたしたちの還るところ? 犬小屋の方がましじゃない?」とお道化る者が自嘲する。
行き着く先は封印だ。意思を持つ魔導書が封印されたならどうなるのだろう、という疑問を今の今まで抱かなかったことをユカリは恥じる。叫びの守護者の心はこの世から消え失せてしまったのだろうか。
「あとは貼られた時の感覚が気になるんだよね」とベルニージュが好奇心を露わにする。
気にはなるが、たとえ一時でも体を乗っ取られるのは恐ろしい。生物の体を乗っ取る【憑依】の力を駆使してきたことを棚にあげてユカリは思った。
「あたしは生物に貼ったことも貼られたこともないから詳しくは知らないよ」とお道化る者。「誰か試してみる?」
率先する者はいない。しかし知っておいた方が良いことなのは間違いない。ユカリが渋々手を挙げようとしたが、ベルニージュが先んじた。
「体のどこに貼ってもいいの?」とベルニージュ。
「いいはずだけど。一定以上の面積は必要だよ」
ベルニージュがお道化る者の菱形の封印を剥がすと再び白樺の木が元の姿に戻った、可哀想に根っこから引っこ抜けているので慌ただしい音を立てて――グリュエーを目覚めさせて――その場に倒れた。ユビスが嘶き、ほとんどの狐が林の奥の暗闇へと逃げていく。
そしてベルニージュは青白い手の甲に躊躇なく貼り付けた。すぐに変化は現れず、しばらく待っても現れない。
「どうしたのですか? 大丈夫ですか?」レモニカが不安になって尋ねる。
「うん。大丈夫。自分で貼った場合は自在に制御できるのかな。そんなことないよ」と言ってベルニージュは驚いた表情になる。「勝手に動くな、とか何とか命令されるまではこっちも自由に動ける」
どうやらお道化る者がベルニージュの口を通して喋っているらしい。
「じゃあ、良いというまで何もしないでお道化る者。ところで、それより……」と言いかけてベルニージュはくすくすと笑う。
「何? どうしたの?」ユカリは珍しいベルニージュの自然な笑みを覗き込み、つられて笑みを浮かべる。
「せ、世界一面白い冗句が次々に思いつく」ベルニージュは堪え切れないという様子で笑い続ける。
「ええ……、世界一って断言できるの?」とユカリは不安げに尋ねる。
「次々に思いつくなら世界一ではないのではありませんか?」とレモニカは冷静に問う。
「言ってみて! 聞いてみたい!」といつの間にか身を乗り出してグリュエーが催促する。
「うん。あのね、ある所に一人の漁師がいたんだけど、ある日、海に仕掛けた網に猪がかかったんだ。漁師は不思議に思いつつも猪を持ち帰って、そしたら……」
ベルニージュは思い切り吹き出して転げまわる。腹を抱え、息を乱し、何も知らなければ酷い怪我か病に苦しんでいるかのようだ。それからベルニージュは何度も何度も結末を口にしようとするが決して言い終えることはなかった。
「とにかくベル、封印を剥がすよ」
ユカリが転げまわるベルニージュを覗き込んだ、その時、突如地面から巨大な手が生え、笑い転げるベルニージュをその丸太のような指で包み込む。そして見る見るうちに地面から、土塊でできた巨大な女が生えた。白樺の木々が押し退けられ、大きく傾くと眠り込んでいた鳥獣が騒ぎ出す。まるで女神の偶像のような姿のそれは立ち上がり、ユカリたちに背を向けて、ベルニージュを片手に大股に走り去る。すぐにソラマリアが追い、グリュエーが後に続く。ユカリとレモニカは慌てふためくユビスを御すと、土塊の巨人を追走した。
暗闇の向こうから、巨大な足音の合間にベルニージュの笑い声が聞こえてくる。巨人の一歩は大きいがユビスならば一瞬で追いつける速さだ。ただし十分な明るさで開けた場所であれば、の話だ。密とは言えない白樺の林もユビスの速さでは執拗な障害だった。
暫くして笑い声が増えた。とても信じられない気持ちでユビスを駆ると、笑い転げるソラマリアの姿があった。見たことのない笑顔で高らかに笑っている。いつも顰めっ面のソラマリアのその様は何者かに乗っ取られたかのようだが、封印を貼られた様子はない。どうやらベルニージュが冗句を言えてしまったようだ。
「ソラマリア! 大丈夫ですか?」というレモニカの呼びかけは楽しげに笑う者に対する声色ではない。「ユカリさま。先に行ってください」
ソラマリアを介抱するレモニカを後にしてユカリとユビスは巨人の足音とベルニージュの笑い声を追う。
ベルニージュがお道化る者の力を使って邪魔をする理由は一つだ。封印の魔性は貼った者に従う。つまりあの土塊の巨人――あれもまた封印の魔性だろう――に封印を貼り直され、『手伝え』とか『追っ手の邪魔をしろ』とか何か命令を受けたのだ。
しかし、とユカリは首をひねる。お道化る者を連れ去ろうとしている魔導書の魔性はどうして笑わずにいられるのだろう。あるいは魔導書だからだろうか。何とか対抗策を見出そうと考えるがユカリには何も思いつかない。両手で耳を塞ごうにも、ただでさえよく跳ねるユビスの背中から弾き飛ばされてしまうだろう。
「グリュエー! ベルの冗句を聞いちゃだめだよ! 風の音で掻き消せないかな!?」
「任せて! 得意だよ!」と暗闇の奥からグリュエーの声が聞こえる。
ごうという風の音が吹き鳴らされる。グリュエーに使命を与えられた風が辺りを渦巻き、唸りをあげているのだ。お陰で身を切り裂くような冷たさに襲われるが致し方ない。
ユビスは巨人の背後に迫る。土塊の巨人に抱えられたベルニージュは何事かを喋り続けているが風で聞こえない。グリュエーは既に巨人の周囲を飛びまわり、札を探している。剥がしてしまえば土塊に戻るはずだ。
あった! という声は風に阻まれてユカリには聞こえなかったが、グリュエーがそう言ったのは間違いない。空気よりも身軽なグリュエーは巨人の首筋の辺りに取り付くと何かを思い切り引き剥がした。封印を失った途端に巨人の体は勢いよく崩れ、形の定かでない土塊へと戻る。
ベルニージュもまた土の手から解放された。しかし相変わらず音を遮る風の向こうで冗句を言っているらしいことは見て取れる。その上、グリュエーに掴みかかり、封印を奪おうとした。しかし、済んでのところで封印は風に乗ってユカリの元に届く。が、同時にグリュエーまで笑い転げることになってしまった。
ベルニージュ、あるいはその体に貼られたお道化る者は少し迷うようなそぶりを見せ、暗闇の向こうへと走って逃げていく。
グリュエーの様子を見るにとてもユビスの背には乗せられそうにない。
「ここで待ってて。グリュエーをお願いね、ユビス」
魔法少女に変身できなくなって、【会話】の魔法も使えないが、しかしいつもの通りにユビスに頼んだ。賢い馬だ。だいたいのところは伝わったらしい。ユカリは新たな封印を片手にベルニージュを追いかける。
菱形の札には涙を滔々と流す豚が描かれている。おおよそ見当はつくがユカリは封印を首に貼り、本人を問い質すことにする。
「ねえ、どんな冗句を聞いても笑い転げないことができるんだね!?」
「私を利用するの? 魔導書は不要だと、封印しようと思っているのに?」と心の中に入ってきた何者かが答える。
「悪用される心配がないなら、封印する必要もないとは思うけど」
そう言ってから、そんな風に考えてもいいのだろうか、とユカリは思い悩む。今更だ。最上級の癒しをもたらす魔導書を封印した後に今更、使命を投げだすなど許されざることではないだろう。
「まあ、私も不要だと思うんだけどね」と魔導書自身が言った。「質問の答えだけど、そうだよ。悲しい気持ちで満たすことができる。あととても涙を流すことになる」
「ありがとう」
「だけど、……死にたくないな」
ユカリはその言葉が聞こえなかったふりをしてしまった。心の中から切実に響いたその声が聞こえないはずはないのに。
ユカリの足はすぐにベルニージュに追いつく。追っ手が迫るのに気づいたベルニージュは冗句を声高に叫び始めた。
ユカリは悲しい気持ちで心を満たす。全ては甘い考えだった。世のあらゆる悲劇を煮詰めて飲み干したかのような気持ちになる。文字通り心臓が張り裂けそうな痛みを感じて膝をつく。身の内が枯れそうなほどに涙も鼻水も止め処なく溢れる。言葉にならない呻き声が漏れ出てくる。
と、同時に冗句を耳にし、喜ばしい気持ちに満たされる。世の全ての喜劇を圧縮して呑み込んだかのような気持ちにする。肺と腹筋が傷みに悲鳴をあげ、さらに涙と鼻水が止まらなくなり、呻き声と笑い声が混ざる。
しかしとにかく、ぐちゃぐちゃになった感情は無理に矯正され、気持ちに均衡が生まれ、何とかユカリは立ち上がる。そしてベルニージュの背中に飛び掛かり、首筋の札を剥がす。すぐに自身の札も剥がし、空気を求めて喘ぐように呼吸する。
「ありがとう、ユカリ」ベルニージュは星々を仰ぎながら呟いた。
「どういたしまして、ベル」ユカリは地に伏しながら囁いた。
「漁師と猪がどうなったか聞きたい?」
「勘弁して」