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ベルニージュたちは怪物めいた追っ手から逃げるため、少しでも先に、一歩でも先にと街道を進んだ。白樺の林で展開した多重の結界など存在しないかのように封印の魔導書に襲撃を受け、ベルニージュは少なからず責任を感じていた。相手を打ち負かすための思考が四頭立ての馬車の車輪のように激しく回転している。
そうしてガレイン半島南西の港町、赤い港にたどり着く。西には古の女王の姉妹にして最古の復讐者、同胞の仇たる神々の熱い血を飲み干した苗床嶽山系の山々が長く伸びて横たわっていた。その山々を越えた先の土地、西沿岸の諸国は長い戦乱の果て、既にライゼン大王国に下っている。
とはいえロムドラの町は平和な雰囲気だった。大陸最北端にあって寒く薄暗いガレイン半島の一角ではあるが、魔と災いとは縁遠い静謐で穏やかな気分に満たされている。人生を謳歌する陽気で能天気な歌は聞こえないが、より良い生を確実に拾おうとする落ち着きのある語らいが聞こえてくる。ほっつき歩く赤ら顔の酔っ払いや後ろ暗い過去に背を向けた船乗りの喧嘩を寒々しい通りで見かけることはないが、寒さから逃れて屋内でやっているだけのことだ。
街へ繰り出したのはベルニージュとグリュエーだけで、他は郊外の宿屋で留守番をしている。せっかく港町に来たのだからとベルニージュは珍品を求めて買い物に出かけたのだった。ユカリが言うには魔導書の気配も感じないという、今のところ。
「考えてみれば」買い物を終え、巣に帰る蟻の如く来た道を戻っているとグリュエーが唐突に切り出した。「魔法少女の力を失っても、魔導書の気配は感じるんだね。ユカリって」
「言われてみれば」ベルニージュも気づいていなかった見解だった。「魔法少女とは別のユカリ自身の才能なのかな。いや、でも魔法少女の魔導書を得るまでは気配なんて感じなかったって前に言ってたような。もしくはこれも……。グリュエー? どうかした?」
歩を止めたグリュエーを振り返る。何かを探すように翠の瞳を彷徨わせている。丁度見見慣れぬ物音に気づいた番犬のように、魔導書の気配に気づいたユカリのように。
「とっても良い匂いがする。麺麭の香り」
ベルニージュもすぐに気づく。すぐに気づかなかったことが不思議なくらいに心躍る馨しさだ。焼きたての麺麭の、慰めるような小麦の香りと誘うような牛酪の香りだ。
「昼食前だけど買っちゃおうか」とベルニージュが提案する。
「うん! 皆も喜ぶよ、きっと」
匂いをたどって見つけた麺麭屋の外観に一見特別なところはないが、大盛況のようで客が殺到しており、行列を作るようにと街の警邏に人々が注意されている。しかし漂うべき剣呑な雰囲気も香りに打ち消されており、諍いはじゃれ合いのように周囲に見守られている。
二人は期待を胸に行列に並んだ。が、ベルニージュは息を呑み、体が強張る。
「殿下? どうして……」
ベルニージュとグリュエーの並んだ目の前にライゼン大王国の不滅公ことラーガ王子が行列に並んでいた。あまりに場違いなのはその立場を知らずとも誰の目にも明らかだ。
「おい、殿下はよせと……」振り返ったその女の格好は飾り気のないありふれた毛皮の防寒着だが、その精悍な目鼻立ちと鍛えられた肉体、身の内から溢れる威風はただの庶民と一線を画している。「なんだ、お前たち。こんな所でどうした? 半島のあちこちで活動していると噂に聞いたのだがな」
「いえ、それは、おそらく別人かと」と言いつつベルニージュはグリュエーを間に挟んでラーガと距離を取る。女だと分かっていても、当人が男だと主張しているせいかベルニージュは多くの男と同様にラーガもまた苦手だった。「それより、一国の……、えっと、自ら麺麭屋で買い物だなんて、何かあったのですか?」
「なに。興味本位だ。本国でも時折市井に紛れることはあったが。それはそうと香りだけでここまで惹きつけられる麺麭など宮廷でもついぞ食べたことがない。腕の為せる業か、それとも他に秘密があるのか、気になってな。まずは食さねば」
ラーガは好奇心に駆られる子供のように、飛び跳ねる心情が表情に現れている。グリュエーは麺麭の香りの魅力に頷き、ベルニージュは麺麭の秘密の誘いに同感する。
ベルニージュにとってはあまりに居心地の悪い行列を並び、今か今かとその時を待っていると、何やら妙な雰囲気が漂い始める。麺麭の香りは相変わらず以上に濃厚になり、行列に並ぶ者たちの飢餓感に似た欲求が立ち居振る舞いから察せられる。他者を押し退ける者、堪え切れない様子で足踏みする者、急かすように声を上げる者。行列だけではない。通りかかった者たちが近寄ってきて、中には割り込む者も現れ始め、俄かに辺りは殺気立ち始める。たかが麺麭のために、と考える者はその場にいない。
どこからか現れたライゼンの騎士と思しき男たちがラーガを守るように四囲を固める。店に殺到する客はそれでも手際よくさばかれていて、満悦した表情の客が店を次々に出て行きもする。中には既に麺麭を頬張っている者もいる。もはや行列など崩壊していた。統率を失って殺到する群衆に揉まれながらベルニージュはグリュエーを放すまいと手を握りしめる。
「ベルニージュ、こっち!」とグリュエーに、ベルニージュが掴んでいたつもりの左手とは反対に右手をつかまれる。
「意外と情熱的だな。いや、そうでもないか」
ベルニージュは左手に繋がれていた手がラーガと知ると慌てて振りほどき、グリュエーに引かれて人混みの向こうへと逃げる。
「魔導書だと思う?」騒動を遠巻きに眺めながらグリュエーが尋ねる。「異常だよね? これって」
「美味しい麺麭を焼く魔導書か。まあ、でも道化師や泣くのが得意な魔導書に比べればよ便利だね」
ライゼン騎士の何人かがまるで脅迫めいたどすの利いた声で混乱する群衆を叱咤しているが、ただただ麺麭を渇望する客は誰も相手にしていない。
「今頃ユカリたちも気配に気づいてこっちに向かってるかな?」とグリュエーは推測する。
「待ってるわけにはいかない。大王国の人たちに気づかれる前に回収しよう」今度はベルニージュが手を引きながら言った。
ベルニージュとグリュエーは麺麭屋の裏口を目当てに裏通りに入った。そして予想通り、込み入った路地の奥に裏口を見つける。こちらは香りが大人しい。正面向けにのみ換気しているのだろう。
「同じことを考えたらしいな」と背後から声を掛けられる。ラーガだ。
さすがにこの異常事態で気づかないはずがなかったのだ、とベルニージュは落ち込む。恩人でもある不滅公とはできれば直接魔導書を奪い合いたくはなかった。もちろん譲る気はさらさら無いが。
「どうした? 入らないのか?」
少なくともこの場で相争うつもりはないらしいと知り、ベルニージュは少し安心する。時間の問題だが。
「今開けます」と言ってからベルニージュはグリュエーに囁く。「香りが溢れ返ると思うから風で室内に留めておける?」
「任せて! そういうの昔から得意なんだ!」
ベルニージュは戸口の護りを払うあらゆる呪文を唱える。森盗人ニースの編み出した木戸に関する様々な姑息な魔術。脱獄の名手として名を馳せた白い眼の砂の山が残した鎖を手懐ける呪文。多くの魔性を飼い慣らした魔法使い亜種の魔除け除け。全ては無意味で鍵すらかかっていなかったが。
ベルニージュは裏口の扉に手をかけ、大切な小物入れでも扱うようにそっと開く。グリュエーの分身たる微風が先んじて麺麭屋の中へと吹き込んだ。
そこは食糧庫だった。小麦粉を中心に麺麭の材料の入った麻袋が山と積まれている。
「ここで待ってて」とグリュエーに言い置いて、そっと忍び込むベルニージュだったが、ラーガが脇を通り抜けてずんずんと突き進んでしまう。
「待ってください」
「早い者勝ちだ」
実際には強い者勝ちだ、とラーガの背中にぶつけるのを堪える。恩人を焼き尽くしたくなどないものだ。
次の部屋がまさに麺麭の焼かれている厨房だった。沢山の麺麭職人が立ち働いている。混ぜ合わされる材料、叩きつけ、捏ねられる生地。次々と竈に放り込まれ、焼き上がったものから店先へと運ばれていく。店先よりも更に濃厚な焼き立ての麺麭の香りに満ちている。
「なるほど。とんと分からんが、熱意は伝わるな」とラーガが呑気に感想を述べる。
竈の数以上に異様な熱気が立ち込め、職人たちは憑りつかれたように麺麭と向き合って、裏口からの闖入者を気にも留めていない。
大王国の王子は感心した様子で厨房を眺めていたが、魔法使いの少女は際高な職人の存在にすぐに気づいた。どうやら主に焼成の工程を取り仕切っているらしいその職人は、まだ若い、あるいは幼いと言ってもいい背丈の少年だった。
ベルニージュは厨房を眺めるラーガの背後でそっと少年の元へと歩み寄る。よくよく見ると人間ではない。その肌は麻布で出来ているようだった。
少年はすぐにベルニージュに気づき、微笑みかける。
「ああ、お迎えだ。思いのほか早かったね」
「人を死みたいに言わないで」
「さあ、どうぞ」そう言って少年は手の甲を差し出す。
そこには麺麭に寄り添う牛が戯画的に描かれた菱形の札が貼ってあった。
どうやら既にユカリの魔導書を盗んでいった件の女――魔法少女狩猟団団長が言うところの裏切者――によって貼り直された魔導書らしい。
「せっかくの自由はいいの?」とベルニージュは少し興味を持って尋ねる。
「みんな喜んでたでしょ? 満足だよ」
その言葉は、満面の笑みで麺麭に齧りついていた客を指しているのだと分かる。
ならば、と遠慮なくベルニージュは札を剥がす。途端に少年だったものは小麦で膨らんだ麻袋になって床に転がった。
「どうした? 何をしている?」
背中から声をかけられ、ベルニージュは札を隠すように抱え込んでから振り返る。
「こっちには無いみたいですね」
「なるほど。焼き立てを食べようという腹か。小癪だな」そう言ってラーガは片手に持った丸々とした白麺麭に齧りついた。
どうやら何一つ気づいていなかったのだと気づき、ベルニージュはほっとしつつ、一層確かに魔導書が見つからないよう、かつ封印が何かに貼られてしまわないように掌の中に隠す。
「ひと、一口いただいてもよろしいですか?」とベルニージュはまるで麺麭のために忍び込んだかのように誤魔化す。
「何口でも食うがいいさ」とラーガは朗らかに応える。
二つに千切られた白麺麭の片方を受け取り、礼を言うと、早く逃げ出したい気持ちは少し和らいだ。程よい堅さに焼き目、そして芳醇な香りごとベルニージュは齧りつく。途端に幸福を胃と肺に満たされたような気分になる。甘やかな小麦の味わい、舌から喉奥を撫でまわすような牛酪の刺激、柔らかな食感はますます食欲を湧かせる。
「美味しい」それ以上の言葉は不要だった。
ベルニージュは恍惚とした気持ちで、ふとラーガと目が合い、反らす。
「お前は男嫌いなのだろう?」
そう言われて、周囲の職人たちがようやく闖入者の存在に気づいていることにベルニージュは気づく。ベルニージュとラーガの他には男しかいなかった。
「ええ、まあ、それに関してもよく覚えてないですけど」
「ならばお前とこうして話せることは、女になったことで得た唯一の喜びだな」
その言葉を麺麭と共に噛み締め、味わい、その意味を呑み込むと、ベルニージュは踵を返して逃げ出した。