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✧≡≡ FILE_043: 秘密 ≡≡✧
──ほんのひととき。
あの日の光は、今よりもずっと柔らかくて、窓辺のカーテンを揺らす風も、まるで赤子の寝息のようだった。
キッチンには、甘い紅茶の香り。
フライパンの上ではバターがじゅうと音を立て、きつね色のパンケーキが、ふたり分、ふっくらと焼き上がっていた。
「……ねえ、ドヌーヴ」
テーブルの向こうで、新聞を広げていた彼が顔を上げる。
「うん?」
その目はまだ幼げで、けれどいつだって、彼女の声には真っ直ぐだった。
「……女の子、ですって」
「…………」
ドヌーヴの瞳が、ふっとやわらかくなる。
「もう分かったんだね。……早いな」
コイルは小さく笑い、両手でお腹を包み込んだ。
そこには、確かな未来が宿っていた。
「名前、考えなきゃね」
「そうだね」
「考えてくれた?」
「んー……まだ」
「まだなの?」
「うん、まだ」
「いつつけてくれるの?」
「まだ」
「まだ?」
「そう、まだ」
くすっと笑いながら、ドヌーヴは上目遣いで囁いた。
「まだ──“秘密”」
「ええ?……ふふっ」
コイルは首を傾げ、湯気の立つカップを両手で包んだ。
「じゃあ、ヒントは?」
問いかけに、ドヌーヴは少しだけ口元を上げた。
「“光”に、ちなんでる」
「光……?」
「うん」
もう一口パンケーキを食べながら、紅茶に砂糖をひと匙。
「明るくて、優しくて、闇を照らすような……そんな名前」
コイルは目を細めて微笑んだ。
「あなたのような人、ってこと?」
「ううん。“俺じゃない”。──俺は……灯油ランプみたいなものさ」
ドヌーヴは照れくさそうに、カップの縁で指をなぞった。
「すぐに消えるし、煤(すす)も出る。手入れは面倒で、誰かが見ていなきゃ、いつ燃え出すかわからない──少しも綺麗じゃない」
その言葉に、コイルは首を振った。
「そんなことないわ。ちゃんとあなたの光は見えるもの。ここまで──届いてる」
ドヌーヴは俯いて、照れ隠しのように髪をかいた。
「光って、ただ明るいだけじゃないんだ」
その声は、お腹の小さな命に語りかけるようだった。
「光は“照らすもの”だけど、同時に“影を生むもの”でもある。だからこそ、この子は選ぶ時がくる。自分が──どんな場所を照らすべきかを」
ドヌーヴは、しばし言葉を止めた。
そして、小さく息を吐きながら、ゆっくりとお腹に手を添えた。
「この子が、何になってもいい。どんな選択をしてもいい。ただ──自分で選んだ光を信じて、生きていける子であってほしい」
その声音は、朝の日差しのようにどこまでもやさしかった。
まるでまだ見ぬ未来に、祈りを送るように。
「光は、その子自身の道標になる。そして、その光が、誰かの光になる。この子が、そんな風に人を照らす光になれたら──」
彼はそっとお腹に手を当てた。
「それはそれは──優しい子になると思うんだ」
コイルは微笑んだ。
その笑顔は、春の朝のようにあたたかく、命を包みこんでいた。
「ええ。きっと、なりますよ。あなたと同じように──“光を信じる子”に」