テラーノベル
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知り合いのバーで飲んで、二人は久々に電車で帰宅の途についていた。
終電間際だが、金曜日の夜ということもあってか、車内は思いのほか混み合っている。
阿部は、心地いい酔いを感じながら吊り革を掴み、ぼんやりと窓の外を見ていた。隣に立つ岩本は、場が盛り上がったこともあり、いつもより酔っていた。彼も吊り革に掴まり、無言のまま電車の揺れに身を任せている。
酔いと揺れと程よい雑音に、阿部は立ったままうとうとし始めていた。
(ねむ…)
睡魔に誘われて瞼が重くなる。すぅ……と眠気に引っ張られて目を閉じた。が、
(…?)
尻を触られたような気がして、阿部は目を開けた。しかし、それきり特に何もなく、おそらく後ろの乗客のカバンか何かが当たったのだろうと、阿部は再び目を閉じた。
電車が大きく揺れる。その揺れに合わせるかのように、再び触られた感触があった。
(はあ…マジか…)
阿部はゲンナリしてひとつ息を吐いた。心地よかった眠気は呆気なく消え去る。
(男のケツ触りたい奴もいるんだなあ)
そんなことをぼんやり考えていると、今度は尻を掴み、そのまま揉んできた。さすがに黙って揉まれる気はない。一言言ってやろうと、阿部は振り返った。そしてきょとんとする。
後ろには、誰もいなかった。
「ん?」
いまだに尻はガッツリ揉まれている。阿部は恐る恐る尻に伸びている腕を目で辿る。
(お前か!!)
尻を揉んでいるのは、岩本だった。吊り革に掴まり、半分寝ているような状態で。
「触んな」
阿部はぴしゃりと言って、手を振り払う。しかし岩本はチラリと阿部を一瞥しただけで、また手を伸ばしてきた。
(ダメだ。この酔っ払い)
呆れてため息を吐き、阿部は諦めた。あと数駅で目的地だ。もう好きにさせておこう、と思った。
「あのっ」
そんな時、後ろの席の方から、緊張した面持ちの女性が声をかけてきた。
「だ、大丈夫ですか。車掌さん呼びますか」
阿部は最初きょとんとして、それから理解した。
彼女の目には、自分が痴漢されているように映ったのだと。彼女だけではない。車内のあちこちから、心配と好奇の目が向けられていることに、阿部は気づいた。
「あっ、大丈夫です!こいつ、ツレなんですけど、酔っ払ってるだけなんで」
慌てて女性に弁解する。なるべく明るく、他の乗客にも聞こえるように。
「そう、ですか」
女性はまだ不安そうだったが、それ以上は何も言わなかった。
「……やめろって、心配されちゃっただろ」
阿部は岩本の手を再度振り払い、恥ずかしそうに言う。
「んー?」
岩本はよくわかっていないようだったが、ようやく手は引っ込めた。
しばらく電車に揺られていると、岩本が阿部を見て微笑んだ。
「ねーえ」
にこにこしながら、甘えたように話しかけてくる。
(酔ってるひかる、可愛い……)
阿部はそんなことを思いながら、続く言葉を待った。
「今日、帰ったらさあ」
「うん」
「風呂一緒に入ろ」
甘えた口調で岩本は言った。そこそこの音量で。
「っ!ば、馬鹿!なに、でかい声で——」
「身体も髪も〜、洗ったげるから」
阿部が慌てるのも構わず、岩本は続ける。
「あの人たちって、そういう関係……」
どこからか、誰かの呟きが聞こえた。
阿部はハッとする。周囲の乗客が、チラチラと好奇の目で自分たちを見ているのが分かった。
「ねえ、いいでしょ?」
顔を覗き込むようにして岩本は笑う。そして腰に腕を回し、抱き寄せてきた。
「ちょっ、やめろって」
完全に電車内であることを忘れている岩本から、阿部は距離を取った。完全に酔いも覚め、変な汗が出てくる。
「明日、休みだからぁ、いっぱいイチャイチャしよぉ」
「!!!」
車内に『イチャイチャするのか…』という、生温かくも気まずい空気が漂う。
「たくさん甘やかすからさ、だから、」
「黙れっ」
阿部は岩本の言葉を遮ると、彼の足を踏みつけた。
にゅうひん☆
905
M_Yuzu
752
「いってぇ、踏むなよ…」
岩本は口を尖らせ、ぶつぶつ言う。
しかしようやく岩本が静かになり、阿部はホッとした。
あと少しで降車駅だ。早く降りて、この地獄のような空気から解放されたい。
「阿部」
岩本が呼んだ。
目が合うと、にこっと微笑む。その笑顔に阿部は、ちょっと胸をときめかせた。
なんだかんだ、この顔に弱い。好きだなあ、と改めて思う。
岩本は、そんな阿部に急に顔を近づけると、その唇に軽くキスした。
ほんの一瞬、唇を合わせるだけのキスだったが、その衝撃は計り知れなかった。
「え?キスした?」
「したよね」
コソコソと言い合う声が聞こえる。
阿部は固まったまま、目の前に座る乗客たちをちらりと見る。
唖然とした面持ちで二人を見ていたスーツ姿の男性は、慌てて視線を逸らした。
「……」
気まずい。
ものすごく気まずい。
阿部は吊り革を握ったまま、無の境地に入ろうとした。
顔が熱い。
見られている。
絶対見られている。
直接こちらを見ている者はいない。先ほどまで興味津々だった乗客たちは、スマホを見たり、窓の外を見たり、広告を眺めたりしている。
しかし分かる。
全員、意識だけはこっちに向いている。
(頼むから早く着いてくれ……)
阿部は心の底から願った。
対する岩本は、満足げに笑っていた。
「なに笑ってんだ」
阿部はぼそっと呟く。阿部に軽く睨まれても岩本は意に介さず、にこにこしていた。
「阿部、顔赤い」
「誰のせいだと思ってんの」
「んー?」
「お前のせいなんだけど」
「かわい」
「もう黙っとけ」
ぶっきらぼうに阿部は言い捨てる。
また周囲から微かな気配を感じる。
お願いだから聞かないでほしい。
いや、聞こえる音量で喋っている岩本が全面的に悪いのだが。
阿部は大きく息を吐いた。
「……ねーえ」
吊り革に掴まったまま、岩本が身を寄せてくる。
「もう……何?」
「すき」
「………」
阿部はできることなら、走る電車の窓を開けて、飛び降りて逃げ出したかった。
(今言う? 何で今? よりによって、この車内で?)
羞恥で叫び出したいくらいだったが、なんとか平静を装う。
「うん。分かったから」
「阿部は?」
「家帰ってから言う」
「今聞きたい」
「やだ」
「なんでぇ」
「なんででも!」
「俺は好きなのに」
「分かったって!」
「すげー好き」
「声!」
「一番好き」
「声でかい!」
とうとう、目の前に座っていたスーツ姿の男性が俯いた。
肩が震えている。
(……笑ってる!!)
隣に座っている女性も口元を隠している。
「ひかる、お願いだからちょっと黙って」
阿部は岩本の肩を掴み、引き攣った顔で言った。
岩本は、不思議そうな顔で彼を見つめる。
そして、無言のまま阿部の袖を摘んだ。
阿部はひとまず、彼を無視した。
岩本は何度か阿部の服を引っ張る。それでも阿部が無視を決め込むと、袖を掴んでいた手を離し、吊り革に掴まる阿部の手にその手を重ねた。
阿部が驚いて岩本を見ると、さっきまでのふにゃふにゃした笑顔は影を潜め、どこか雄っぽさを滲ませた、しっとりした目つきで阿部を見ていた。
その目に射すくめられて、阿部は息を呑んだ。
「……なに」
思わず声が小さくなる。
岩本は答えない。
ただ、阿部の手に重ねた指をゆっくり滑らせ、そのまま指の隙間に絡めてきた。
恋人繋ぎ。
「……っ」
心臓が、どくんと跳ねる。
さっきまで「いっぱいイチャイチャしよぉ」なんてふにゃふにゃ笑っていた男と同一人物とは思えない。
酔っているせいなのか、少し伏せられた目が妙に色っぽい。
じっと見つめられているうちに、阿部は周囲の視線も、さっきまでの羞恥も、一瞬だけ忘れた。
岩本の顔が、また少し近づく。
(……え)
もう一度キスされる。
そう思った。
いや。
思った、というより——少し期待した。
阿部は無意識に目を閉じかける。
その瞬間。
「……帰ったら」
耳元で低い声がした。
「いっぱい、ちゅーしよ」
「…………」
目を開けた。
至近距離にいる岩本は、先ほどまでの雄っぽい表情のままだった。
「……」
「ね?」
「…………」
台詞が絶望的に酔っ払いだった。
しかも。
「いっぱい、ちゅー……」
近くから、誰かが復唱する声が聞こえた。
阿部は勢いよく声の方を見る。
さっきのスーツ姿の男性が、ものすごい勢いでスマホに目を落とした。
(聞いてんじゃねぇか!!)
一瞬でもときめいた自分を殴りたい。
「お前もう喋んな!」
「なんで?」
「なんでも!」
「キス、嫌?」
「そういう問題じゃない!」
「じゃあする?」
「しない!」
「家で?」
「だから黙れってぇ!!」
また肩が震えている。
スーツの男性だけではない。
その隣の女性も完全に俯いている。
笑われている。
確実に笑われている。
阿部はもう、穴があったら入りたいどころではなかった。
穴を掘りたい。
自分で掘って、自分で入り、自分で埋めたい。
『まもなく、——』
車内アナウンスが流れた。
聞き慣れた駅名に、阿部は勢いよく顔を上げる。
「ほら、降りるよ!」
岩本の腕を掴んでドアの前にスタンバイした。電車が減速するのさえもどかしい。早く停まれ、早く開け、と心の中で繰り返した。
ホームに滑り込んだ電車が、ゆっくり停車する。ドアが開く。さあ降りるぞ、というまさにその時——
「お幸せにー」
誰かが声を上げた。車内に、堪えきれなかった人々の笑いが弾ける。
ドアが閉まり、電車は発車していった。
「………」
阿部はホームに呆然と立ち尽くした。
(お幸せに……)
見ず知らずの人からの祝福に、絶望する。
これはひとこと言ってやらねば、と元凶である岩本を振り返った。
「阿部ー、早く帰ろう」
車内の空気をかき回した当人である岩本は、あくびまじりでまだふわふわしている。
その呑気な様子を見て、阿部は脱力した。
「どうした?」
「明日、説明する……」
どうせ覚えてないんだろうな、と思いながら言う。
次に飲むときはタクシーで帰ろう、と阿部は固く心に誓った。
コメント
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比喩でもなんでもなく うるさい(物理)🤣💛💚

振り回させてる💚も、大好きです。 ありがとうございます。