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凪川 彩絵
#独占欲
「……すべてを捨てる? 随分簡単に言うのね」
「簡単? 御冗談でしょう? そうならないために、こうしてこちらから母さんに歩み寄ろうとしてるのに――反故にしようとしてるのは母さんじゃないですか」
その答えは迷いがなかった。
清香はしばらく息子を見つめていた。
やがて、ふっと息をつく。
「……本当に」
小さく呟く。
「あなたは、嫌になるくらい私にも似ているのね」
晴永の眉がわずかに動く。
「見た目はお父さんにそっくりなのに……そういう強情なところ、昔の自分を見ているみたいで嫌になる」
それ以上は何も言わず、清香は視線を書類へ戻した。
「今日はもういいわ」
まるで仕事の区切りをつけるような口調だった。
「帰りなさい」
晴永はしばらく立ったままだったが、やがて小さく頷く。
扉へ向かい、手をかけた。
その背中へ、清香の声が落ちる。
「……晴永」
振り返る。
清香は書類を見たまま言った。
「あなたにそこまで言わせるお相手の名前、教えてくれる?」
ほんの一瞬、間が空く。
だが晴永は迷わなかった。
静かに答える。
「小笹瑠璃香です」
清香のペンが、わずかに止まった。
だが、それだけだった。
「……そう」
それ以上、何も言わない。
晴永は軽く頭を下げ、部屋を出た。
扉が閉まる音が、静かに部屋に残る。
しばらくの間、清香は書類へ視線を落としたままだった。
だがやがて、ゆっくりとペンを置く。
机の上に置かれた電話機へ手を伸ばした。
受話器を取り上げ番号をプッシュすると、耳に当てる。
数回の呼び出し音のあと、相手が出た。
「――もしもし、お父さん?」
清香は落ち着いた声で言った。
「……今、大丈夫?」
短く間を置く。
「――晴永のことで、少し話しておきたいことがあるの」
***
帰宅したのは、いつもより少し遅い時間だった。
鍵を回して玄関扉を開けると、すぐに足音が聞こえる。
「おかえりなさい!」
ぱたぱたと駆けてくる音。
次の瞬間、瑠璃香が顔を覗かせた。
エプロン姿のまま、どこか嬉しそうに笑っている。
「――お仕事、大変でした?」
遅くなる旨はメッセージで伝えてあった。〝仕事〟とは言っていなかったが、瑠璃香は勝手にそう判断してくれたんだろう。
「ああ……まあ」
実際には母親のところへ出向いていた後ろめたさに、晴永の返しが少し鈍る。
靴を脱ぎながら、晴永は無意識に小さく息を吐いていた。
母との会話が、まだ頭の奥に残っている。
母に言われた通り、自分が背負っているもののことを、瑠璃香にちゃんと伝えなければならない。
それこそ、なるべく早く――。
「瑠璃香」
呼びかける。
「はい?」
きょとんとした顔でこちらを見る瑠璃香のその無防備な表情に、一瞬だけ言葉が詰まった。
だが、逃げるわけにはいかない。
「ちょっと、話が――」
そこまで言いかけた瞬間だった。
「きゃっ!」
小さな悲鳴が上がる。
「どうした?」
思わず声を上げると、瑠璃香が慌ててしゃがみこんだ。
「やだ、なんで……!?」
床の方を見ている。
晴永も視線を落とした。
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床に何が!?