ある晴れた夏の日だった。町人のお姉さんが江戸へと向かう道を見てある言葉をこぼした。
「お江戸はどうなってしまうのかね」
ここは神奈川宿。京の三条大橋から東海道を通って江戸の品川宿に辿り着く道の、最後から二つ目の宿場町。江戸に程近い、神奈川湊から武蔵の湾を見れば、北や南、西に東から江戸に運ばれてくる物品を積んだ船の往来が盛んに行われる。飽きることなく、永遠に見続けられる風景。おれが知る、唯一の宿場町以外の世界。
先ほど町人のお姉さんから聞いた不穏な言葉がまた脳をよぎる。
江戸の動きが不可思議らしい。けど、あくまで噂程度。今のこの国で何が起きているのかもおれにはわからないし、一介の宿場町は知る必要もない。
数年前、浦賀に来航した黒く大きな鉄塊の船を思い浮かべる。鉄塊が水に浮く原理などを考えてみるが不明瞭なことばかり。そういえば、最近薩摩が鉄塊の船に挑戦していたのを覚えている。いつかはこの地に物を運ぶ船たちも、あのような鉄塊になるのだろうか。
…今は町に戻ろう。何かおれたちの身が危険に陥るようなことが起こるならば、武蔵さんや相模さんから一言二言あるはずだ。そう思い、神奈川湊から背を向けて家である宿場町へと足を向けた。
青天の霹靂。宿場町に帰ると、即座に役人に呼び出された。客人がいるとやらで顔を出してみれば、相手は武蔵さんだった。ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、呼び出されるほどの話があるということだ。
「神奈川、落ち着いて聞いて欲しい」
武蔵さんからそう前提として置かれた言葉に、コクリと頷きながら内心では途轍もなくヒヤヒヤしている。胃がキリキリと痛む音がした。
「お前の湊を異邦の者たちに向けて開港出来ないか、というが上がってな」
外から来た黒い鉄塊の船を使う異邦の者たち。幕府は…というよりは一部の幕臣が外の者たちと通商を行いたいと言ったという。それにあたり、幾つかの港を開けることになったという。元々開いていた長崎はこれを機に整備されるとのこと。
「ただ、幕府の者は江戸に近く民の往来が盛んな神奈川を開けるのは大きな問題を生んだ時に対処が大変、と言っていて」
それに関しては問題ないのだ、と武蔵さんはいう。問題なのは、幕府が“神奈川“を開けると言ってしまったことだという。
「…それは」
言葉に詰まってしまう。今になって神奈川を開けるのを渋るとなると、外からの印象は悪くつけられてしまうのではないか。
その解決策を飲んでもらいに来た、と武蔵さんは続けた。
「これは幕府方が考えた解決策だ。神奈川がどうかは知らないが、できるだけ飲んでほしい。時間がない」
開ける場所は横浜村という辺鄙な小さな村。その村をおれの傘下として、“神奈川“ということにして開ける。それが神奈川を開けないが対外的には“神奈川“を開けたように見せる方法。唯一の解決策であり、相手を騙す手口。
武蔵さんを困らせるわけにもいかず、おれはソレを選んだ。はっきりと、自分で選択した。
そして、そのまま武蔵さん主導の元、横浜が開港した。それから、十数年の月日が経った。
「神奈川、お前は横浜に行かないのか?」
この時の流れの中で何度武蔵さんからそう問われたか、とっくに数えることをやめてしまった。武蔵さんは近頃、おれと横浜に構い出した。
最近、江戸の体調が優れないことが多くなってきたからだろう。武蔵さんにも、おれにも出来ることないから、江戸の容体は基本的に四宿に任せている。死にかけの状態で江戸城を開城したことが響いているのかもしれない。ただ、賢明な人間たちの判断のおかげか、江戸の民は誰一人として血を流していないから、生きる可能性は全然あると思う。
それはさておき。
「…横浜、ね」
知っているのは、おれたちが開港を決めた時には既にあの村には土地精霊が居たということ。
「凄く頑張り屋だから、お前にも会ってほしいんだよな。昔のお前にそっくり」
「煩いです」
そんなわけない。昔のおれなんてどうなのか忘れてしまったけど。早く横浜の方に行って構ってやればいいのに、そう思った。今回もまた行かなかった。数年後にここで横浜に行かなかったことを後悔することになるとは知らないまま。






