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カシャン、と最後の膿盆を診療器具の山に重ね置く。
「終わった……」
凪は深く息を吐いた。
(これを毎日、お一人でこなしていたなんて……やはり、将臣様はすごいお人だわ……)
「凪。今日は助かった」
背後から響く足音。振り向くと、そこには診察中とは違う、穏やかな笑みを浮かべた将臣が立っていた。
「ありがとう」
(……いいお顔をされている……)
「とんでもございません。すぐに手伝いに来られず……申し訳ございませんでした」
途端に、二人から言葉が消えた。
人の波が引いた診療所には、静寂と二人の呼吸音だけが残されていた。
互いに照れくさく、目を合わせることができない。
「みゃ〜ん」
そこへ、のんびりとした足取りで、入り口から結丸が入ってきた。
「結丸!」
凪は結丸をそっと抱き上げ、毛並みを撫でながら、ぎゅっと唇を噛み締めた。
「将臣様……」
凪は意を決して、まっすぐに顔を上げた。
「私は……間違っていました」
将臣は黙って耳を傾ける。
「私は、傷は読めても……あなたの心までは読めていませんでした」
凪はそっと目を伏せた。
将臣が目を見開く。
「ずっと……兄の代わりで、私を傍に置いているのだと思っていました。でも、兄の遺言だから、私と結婚してくださったのではないのですね」
「お前を迎えたことだけは、違う。……私が、お前を選んだんだ」
将臣の声は優しく、だが胸の奥に届く強い芯があった。
凪は顔を上げ、将臣の瞳をじっと見つめ返した。
「本当に……初めから……私を選ばれていたのですね」
「ああ……そうだ。凪でないとだめだった」
お互いの声が揺らいでいる。
「だから……ここまでしてくださって……本当に嬉しくて……っ」
目元から、ぽろぽろと大きな涙が溢れ出す。
「凪……」
将臣は愛しさを抑え込むように唇を噛み締め、震える手を凪の肩へ添えた。
「ようやく……伝わった」
「はいっ。あなたの声を信じていれば苦しませずに済んだのにっ」
「──そんなこと、もういいっ」
将臣の腕に抱きしめられる。彼の熱い吐息が耳にかかる。
「凪が離れそうになって初めて、自らが変わらねばと思えた。全て、凪のおかげだ。だから──もうっ」
抱きしめる力がさらに強くなった。
ふと、腕の力が緩くなる。腕を掴まれ見上げれるとそこには、傷をもつ将臣の顔があった。
お互いの瞳が揺れる。
将臣の唇がかすかに動く。
だが──ふと何かを思い出しかのように、その凪の腕をすっと離した。
「……少し、待っていてくれ」
「……将臣様⁈」
将臣は鞄から小さな桐箱を取り出した。
蓋を開けると──そこには、美しい簪が収められていた。
「……あっ!」
(薫子さんへの贈り物だと思い込んでいた、簪……⁈)
その簪は銀の細身で、美しい曲線をかたどった結び目の意匠だった。
「解けぬようと……想いを込めた」
将臣は愛おしそうに、結び目の丸みを指先で撫でる。
「早く渡したかったが、遅くなってすまない」
将臣は、凪の髪にそっと簪を挿し込んだ。
その手が髪に触れただけで、凪の身体の中から熱くなる。
凪の髪に挿された銀の結び目が、夕日の光を受けて小さく光る。
簪から凪の瞳へと、将臣の視線がゆっくりと移る。
「桐谷凪」
穏やかだが、どこか熱っぽさも感じる声。
「……はい」
凪は胸の奥から込み上げるものを、唇を硬くして懸命に押さえ込む。
「この簪を受け取って欲しい」
「……はいっ」
小さく何度も頷く。
将臣は頬を柔らかくした。
「そして……これからも私の妻でいてくれ」
凪の細めた目から、また涙がこぼれた。
「……はい」
声が震える。それでも今度は、迷いなく頷いた。
「私は……将臣様を信じます」
将臣の瞳が、わずかに揺れる。
「あなたが心から笑えるように……これからも、ずっとお側にいます」
将臣はしばらく何も言わなかった。
やがて、凪の頬にそっと手を添える。
「……私も、凪を愛している」
低く、静かな声だった。
「ずっと……言えずにいた。待たせてしまったな」
「……いいえ」
凪は涙を拭おうともせず、小さく首を振った。
「今、聞けましたから……」
その言葉を聞いた瞬間、将臣の腕が凪を強く抱き寄せた。
「もう……離さない」
胸に押しつけられた凪の頬に、将臣の鼓動が伝わってくる。
凪もそっと、その背に腕を回した。
「はい……」
今度こそ、この温もりを疑いたくなかった。
将臣の指先が、凪の背をゆっくりと撫でる。
やがて二人の顔が近づき、互いの瞳が重なった。
凪はそっと目を閉じる。
触れた唇は、ほんの一瞬だった。
けれど、それだけで胸の奥に張りつめていたものが、すべてほどけていく。
唇が離れると、凪の頬がみるみる朱に染まった。
将臣もまた、照れたように目を伏せる。
──と、その時、
「にゃーっ!」
二人の胸の間から、結丸がひょっこりと顔を出した。
「……あっ!」
凪が慌てて結丸を抱き上げる。
「ご、ごめんね、結丸。苦しかった?」
「にゃ!」
ぷいっと顔を背ける結丸。
その愛らしい仕草に、凪と将臣は顔を見合わせた。
そして、二人の間に堪えきれない笑いがこぼれた。
凪は涙の跡を残したまま笑い、将臣もまた、久しぶりに心から笑った。
ようやく二人の間にあった長い誤解が、静かにほどけていった。
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