テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「この調剤台を、診察机の代わりにしておくれ」
継母の翠が改装したまま使われずにいた、店の奥の空間。
そこへ薬棚や椅子を運び込み、まっさらな診療録を整えていく。
作業を手伝いながら、源一郎が言った。
「翠に余計なことをされたと思っていたが……ちょうどよかったな」
少し可笑しそうに笑う。
「どうやら今は、町工場で働いているらしい」
「俊朗さんは……助けてくれなかったのですね……」
凪は消毒液を並べていた手を止めた。
「自業自得だ。同情する余地もない」
将臣が淡々と言い放つ。
その言葉に、凪は小さく頷いた。
ふと、将臣が店の奥から新調した暖簾を取り出してくる。
「あっ、私も手伝います」
凪も駆け寄った。
その暖簾は、山吹色の布地に、真新しい文字が染め抜かれている。
「以前より、少しだけ大きくなりましたね」
凪が愛おしそうに暖簾を撫でる。
「そうだな」
将臣もどこかくすぐったそうに笑みを浮かべた。
その作業の途中、凪の視線が、将臣の手にある傷痕に留まる。
それは──将臣が実家を出る際に、結丸がつけた傷。
凪は思わず、傷に手を伸ばしかけた。けれど、その手は触れる直前でぴたりと止まった。
「傷を……読まないのか?」
将臣が静かに不思議そうに尋ねる。
凪は少しだけ、誇らしげに目を細めた。
「私は……将臣様の言葉で聞きたいのです」
そっと手を下ろした。
「その傷は……どうされたのですか?」
将臣は目を見開き──そして、ふっと頬を優しく緩めた。
「それなら……長い話になるが、いいか?」
「はい」
凪も微笑み返す。
「時間は……たくさんありますから!」
「みゃあ!」
結丸が店先で可愛らしく鳴き、二人は弾かれたように振り返った。
そこには、晴臣と将臣の父が立っていた。
「父上……! 晴臣……!」
将臣の声が、ぱっと弾む。
「来てくれたのか!」
「おっほん!」
父は気まずそうに大きく咳払いをした。
「いや……猫の顔を見に来ただけだ」
そう言いながら屈み込み、結丸をそっと抱き上げる。
「みゃあ」
「……変わりはないな」
しばらく不器用に結丸を撫でていた父が、ようやく顔を上げた。
「それから……」
将臣と凪を交互に見つめ、再び咳払いをひとつ。
「祝言には……来てやってもいい」
「……!」
将臣も凪も、目を丸くしたまま、言葉が出ない。
父の隣で晴臣が口元を押さえ、可笑しそうに息を漏らす。
「父上は……いや、なんでもありません」
「晴臣。なんだ」
父がじろりと晴臣を見る。
「私が強情なのは……父上似だとわかりました」
「……」
父の眉がぴくりと跳ねた。
将臣がたまらず吹き出し、凪も声を立てて笑った。
「何を笑っている!」
父は不機嫌そうな顔を装い、結丸を抱き直した。
けれど、その口元はどこか気恥ずかしそうに、ほんの少しだけ緩んでいた。
二人を見送ったあと、将臣と凪は晴れやかな顔で店先に立った。
真新しい暖簾を、二人で掲げる。柔らかな風が吹き抜け、山吹色の暖簾がふわりと大きく揺れた。
『麒麟堂医院』
その文字を、凪はじっと見上げた。
隣には、愛する将臣。
足元には、すり寄る結丸。
店の中には、温かく見守る父・源一郎。
凪は一人ひとりの姿を、愛おしそうに確かめていく。
(兄様……)
胸の奥が、どこまでも温かく満たされていく。
(ありがとうございます……。どうか、これからの私を見ていてください)