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高々と宙を舞った男性の身柄が、噪音を立てて観客席の中ほどに墜落した。
樹脂製の座席が煽りを食って損壊し、そこから生じた色とりどりの屑物が、まるで安上がりな花火のように飛び散った。
にわかに前後不覚の醜態をさらしたが、姿に似ず意気の立て直しは早い。
背もたれの縁(へり)に額をゴリゴリと押しつけて身を起こし、霞みがちな目線をどうにか遣り繰りして眼下を見やる。
「バカな……」
わななく口唇(こうしん)はいたく正直で、心中の有りさまを端的に表した。
グラウンドの中央付近に、葛葉がひっそりと立っている。
男性の元から奪取した得物を片手にぶら下げ、もう片方の手爪には光沢の良い生地の切れ端が引っ掛かっていた。
ピッチフォークの損傷は深刻で、柄の部分は亀裂が著(いちじる)しく。
なおも旱魃(かんばつ)した地面のように、これを満遍なく蔓延(はびこ)らせつつあった。
先端にあしらわれた四本爪にいたっては、表面がぶくぶくと沸騰をきたしており、今にも水飴よろしく熔け落ちそうな具合だった。
絹を裂くような悲鳴が、鼓膜の内側で顕然と木霊(こだま)したのは錯覚か。
「止せッ!!!」
矢も盾もたまらず、客席が並ぶ段丘を一足飛びに降(くだ)った男性は、果敢にもこれに組み付いた。
刀が武士の魂というのであれば、御遣にとっての得物とは、もっと即物的な生命線に等しいものだ。
巫覡との絆の表れ、そんな風に嘯(うそぶ)くつもりはない。
しかし、ある種のロマン主義を掲げる彼にとって、相棒の息吹きを感じる道具を弄(もてあそ)ばれるのは、我慢ならないものだった。
そうした思いを汲(く)んでか、それ以上の玩弄(がんろう)をただちに控えた葛葉は、パッと手を離し、当の物品を持ち主のもとへ返却した。
ひとまず後方へ跳んで逃れた男性は、身を低く構え、息を整えることに専念した。
流し見たところによると、やはり得物の棄損は甚(はなは)だしく。 躊躇(ちゅうちょ)なく攻め込むには、いささか心許ない印象だ。
霊威の受信自体は問題ない様子だが、自己修復が働くにはいま少し時間が必要なようだった。
「………………」
懐(ふところ)に忍ばせた霊薬の存在を、それとなく意識する。
できれば使いたくはないが、事がここに至っては……。
かすか、衣擦れの音が小耳を打つ気配がした。
しかし、彼は取り合わない。
──それにしても、あのお方は
ちょうど“足元に”跪(ひざまず)く格好で、天を打ち眺めるように先方の容貌を仰視(ぎょうし)する。
可憐だ。
八重咲きに栄(は)える美貌は数あれど、そもそも芽吹くはずのない荒地にあってなお、こよない美しさを保つ花が他にあるだろうか。
一代にも満たぬ間(ま)に環境に順応し、そこにある事を当然として、ただ凛然と咲きほこる不撓(ふとう)の初花。
何人(なんぴと)たりとも摘み取ることは許されない。
元よりそうした気を起こさせないのは、かの一輪咲きが講じる自己防衛に似つかわしい生存戦略によるところか。
そうではない。
この場合、危機意識が働いているのは、恐らく我々の側(がわ)だろう。
それとは知らず毒花に手を伸ばそうと試みた折り、頭の片隅で待ったをかける、言うなれば生存本能だ。
触れれば爛(ただ)れ、飲めば斃(たお)れる。
美しく咲きながら、時には人を容易に殺す毒の花。
畏(おそ)ろしいとは思いつつ、そんな花にとてつもなく魅力を感じてしまうのは、私たちが狂っている所以(ゆえん)か。
勿論それもあるだろうが、ひとえに蜜を欲する我々は、こうした花にこそ一命を賭(と)して───
「………………!」
何やら、とんでもない空目をきたしたような気がした。
冷静に考えれば合点(がてん)がいく。
あのお方が、このような場に御座(おわ)すはずが無い。
「気ぃつけなさいよ?」
「は……っ!?」
真上から声がした。
待て待て、妙だ。
そういえば、自分はなぜ彼女の足元にいる?
先ほどはたしかに
「くっ!!」
強(したた)かに混乱した男性は、瞬く間に硬直を始める速筋に辛くも命令をくだし、できる限りの迅速さで首を仰(の)け反らせた。
その後先(あとさき)をかすめた刃のような手爪が、獰猛な圧力波を放縦(ほうじゅう)にまき散らした。
逃げ遅れたネクタイが千々(ちぢ)に破れて紙ふぶきの体(てい)をなし、不可視の流れ弾を被(こうむ)った数多の客席が粉々に撃摧された。
「………………っ」
すっかりと挫(くじ)けた足腰に渇を入れ、無意味な事とは知りながら、間合いを切って安全圏となりうる場所を模索する。
神足通。 かの仙力は、単に足運びを速やかにするための方策ではない。
そうした陳腐な枠組みに納まるものではなく、元々はカミが六界を自在に行来(いきき)するための術法である。
それはある種の示現であり、顕現であって、時にはそこに坐(いま)すことが当然であるかのように知覚させる。
今さらに、恐ろしい相手にケンカを吹っ掛けてしまったものだと、胆(きも)が縮む思いがした。
しかし、自分とて御遣の端くれだ。 ここで怯(ひる)んでは肩書きが泣く。
せっかく取り立ててくれた上役に申し訳が立たない。
天に対する憤(いきどお)り、そんなものは正直どうでもいい。
過ぎたことをとやかく言うのは美学に反するし、そんなものに囚われていては、いずれ“昨日”に縫いつけられる。
にも関わらず、今日を飛び越えて明日を目指した彼(か)の同僚が、少しばかり羨ましく感じられたのは、どういった理屈によるものか、当の男性にも判別がつかなった。
『姐御、遊び過ぎだぜ! さっさとシバいて帰らねぇと』
「あ……? あぁ、そうな」
急き立てるような相棒の声を受け、ふと我にかえった葛葉は、ひとまず差料の鯉口を切ってはみたものの、間もなく思い止(とど)まった様子でこれを元の位置へ押し込めた。
どうにも先頃から、事の優先順位を取り違えている気がしてならない。
心を改めるつもりで大きく深呼吸を加え、天耳通(てんにつう)を働かせて町中の様子を丹念に探る。
何事も無ければそれでいい。こちらに専念できる。
ところが小耳に届いたものは、度重なる銃声と怒号。 方角は紛れもない、町の南西部。 件(くだん)の宿がある辺りだ。
途端に頭に血がのぼり、目がつり上がった。
「やっぱりそういう事かい? どの口で……!」
「舌でも抜きますか?」
これに対し、一世一代の冗語を口にした男性は、肩を怒らせて迫りくる葛葉に向けて、懐から取り出した小瓶をすばやく投げつけた。
そうして即座に足元を固め、頼みの得物ともども決死の突貫を目論(もくろ)むも、何やら様子がおかしい。
「舌ぁ……? そんな面倒なことしないよ?」
指先を巧みに操作した彼女は、これを難なく食い止めており、恐ろしげな眼をこちらに寄越していた。
「もっと手っ取り早く、ド頭(たま)ごとぶっこ抜いたる」
不発に終わっただけならまだしも、この窮策は完全に火に油をそそぐ結果を招いたらしい。
最悪の事態だが、男性にも覚悟はある。
「止めときな? 何べんやっても同じだよ」
「………………」
小瓶をもう一つ、その手にかたく握りしめた彼は、わずかに躊躇(ためら)いの色を見せた。
しかしそれも一瞬で、何を思ったか、これをみずからひと口に飲み干した。
『あなた! ダメ!』
間際、うら若い女性の声が、頭内で弾けるように悲鳴を上げたが、もはや当人にそれを知覚する術(すべ)はなかった。
その光景を的確に表す言葉を、葛葉の脳裏はひとつも思い得なかった。
人の歴史の陰に蟠(わだかま)る凄惨な出来事。 それらをひとつの記録として保持する現身の彼女ですら、思わず目を覆いたくなるような光景だった。
『……うちはいいぜ?』
「いや………」
苦しみに堪えかねたか、しきりに介錯を求める悲痛な声を、鼓膜より内側には入れないよう尽力する。
もしもこれが胸中に及んでしまえば、恐らく自分はその通りに計らうだろうと、容易に推察が立ったせいだ。
「つまらん事しやがって……」
手元の小瓶を鼻先につまみ上げ、光に透かして観察する。
神霊にさえ劇薬として作用する代物が、人間の身にどのような効果をもたらすか。 考えただけでもゾッとしない。
しかしどうする? 敵とは言え、このまんま放っていくのは。
そこで、苦悶の声が止んでいることに気づいた。
眇(すが)めて見ると、男性がよろよろと身を起こすところだった。
その顔つきが尋常ではなく、雰囲気が先頃と一変している。
明らかに常軌を逸(いっ)した瞳は黒目が極端に痩せており、焦点も合っていない。
さながら中毒者のそれをみる思いだったが、決して不健全な印象とは言い難(がた)く。
むしろ肩先に透けて見える気炎は凄絶で、目視にかなう覇気が全身からメラメラと立ち上っているようだった。
「──────っ!!!」
途端、口蓋を裂けんばかりに押し開いた彼は、声にならない声で咆哮した。
単なる音圧ではない、肌身が小刻みに震駭(しんがい)するのを感じた葛葉は、注意深く身構えた。