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 木製の壁が、人間と魔物の境界線を区切っている。

 そうであろうと隙間がなければ往来など不可能だ。

 設けられたアーチは出入口であり、彼らは忍び込むように潜り抜ける。

 泥棒ではない。

 傭兵だ。

 胸を張れない理由は、少年にとってここが忌むべき場所だからだろうか。

 闇を拒絶するように、道沿いにはぽつぽつと街灯が設置されている。光源が一定間隔で並ぶ街並みは一見するとイダンリネア王国の城下町を連想させるも、比べてしまうといくらか質素と言う他ない。

 当然だ。華やかさなど求められてはおらず、愚直なまでに漁村としての機能を追及している。

 また、樹木を伐採、加工することも生業としており、この産業が多くの人々を支えていることはあまり知られていない。

 ここはルルーブ港。エウィンが六歳まで過ごした故郷であり、今回の帰郷を誰よりも本人が驚いている。


「キリッ」

「顔、すぐ元に戻っちゃうね」


 エウィンとアゲハ。真夜中ながらも無事到着だ。

 少年の顔は不釣り合いなほどに凛々しい。他人の振りをしたいがためであり、普段と比べると二十歳以上は老けて見える。顎が尻のように割れているが、これに関しては目の錯覚なのだろう。


「漁師は早寝早起きなので、思ってた通り、人の往来は少ないですね。キリッ」

「和やかな場所だね。田舎みたい……」


 アゲハの言う通り、ここは田舎そのものだ。

 栄えていないわけではない。

 しかし、住民の密度も建物の数も、都会と比べれば下回ってしまう。

 そうであろうと、ここも人間が住まう場所だ。

 そして、エウィンが生まれた場所でもある。


(悔しいけど、懐かしいって思っちゃうな。こんなところ、二度と来たくなかったけど……)


 情景そのものは十二年前と大差ない。

 道沿いに点々と並ぶ、誰かの家。

 一方で、樹木の加工を行うための施設が密集しており、夜中ゆえに作業は行われていないものの、従業員が残業しているのだろうか、建物からは灯りが漏れている。

 村の中心には商店が競うように配置されているのだが、最も目立つ建物はやはりギルド会館だ。


「宿屋はギルド会館の隣にあったはずです。見どころ何てありませんし、さっさと目指しましょう」


 エウィンの口調がいくらか刺々しい理由は、ひとえにルルーブ港が嫌いだからだ。

 ここにはかつての我が家もあるのだが、訪れるつもりにはなれない。見知らぬ誰かが住んでいるのか、もしくは取り壊されてしまったのか、それすらもわからない。

 そして、知りたくもない。


「あ、潮の匂い……」

「してきましたね。この付近で捕れる魚は王国にも輸出されてて、それとシイダン村の野菜や果実もここを経由して運搬されます。だから、人の往来はけっこう多かったりしますね」


 二人の鼻腔が生臭い匂いを探知する。

 生物の死体が溶け込んだそれはまさしく海の匂いだ。ここが港であることを再認識させられる。

 街灯だけでは補えないほどには、この地は暗い。家々の窓からは明かりがこぼれているのだが、夜道を照らすにはいささか貧弱だ。

 そうであろうと少年は軽快に歩ける。ここがどこで、目的地の場所も覚えている以上、足取りに迷いは生じない。


「静か……」


 この独り言はアゲハの本心だ。

 深夜ゆえに当然なのだが、聞こえる音は二人の足音だけ。その影響か、彼女は妙な孤立感を抱いてしまう。

 もっとも、寂しくなどない。隣にはエウィンがいてくれるのだから、どちらかと言えば満足感が勝るほどだ。


「もうちょっと進めば、波の音が聞こえてくるかもです。あぁ、でも、ギルド会館に近づいたら、傭兵のどんちゃん騒ぎでうるさそうですね」

「ふふ、そうかも」


 夜道を歩く。

 二人だけで歩く。

 孤独のようで、そうではない。

 だからこそ、眼前が黒色であろうと、静か過ぎても、恐れることなく前へ進める。

 潮風が彼らの頬を撫でたところで、足止めには程遠い。せいぜいが緑色と黒色の髪を揺らす程度だ。

 エウィンは見知った街並みをつまらなそうに歩く。

 アゲハは見知らぬ風景を眺めながら同行する。

 そして、彼らはたどり着いた。


「宿屋に到着です。実は、泊まったことないんですよね。ちょっとドキドキ……」


 ギルド会館に次ぐ、巨大な建物。眼前にそびえるそれは、三階建ての立派な宿泊施設だ。

 エウィンはこの村出身ゆえ、ここを利用する機会がなかった。そういった背景から、わずかに胸が躍ってしまう。


「わたしも、ドキドキ……」


 アゲハが昂っている理由は全くの別だ。

 エウィンとの同室。その事実が妄想を膨らませており、言い換えるならば欲情している。

 残念ながらその願望は、十秒足らずで打ち砕かれてしまう。


「夜分遅く申し訳ない。個室二つ、空いていますかな?」

「えっ⁉」


 両開きの扉を通り、女性店員の待つ受付へ。

 少年は濃い顔で大人を演じながら、二つの部屋を申し込む。

 この状況にアゲハは驚きを隠せない。共に一夜を過ごすという邪な目論見が霧散した瞬間だ。

 しかし、神は彼女を見捨てなかったらしい。

 恰幅の良い女性店員が手元の書類で宿泊状況を確認すると、申し訳なさそうに口を開く。


「本日はほとんど満室でして、空いている部屋は二人部屋一つとなっております。こちらでよろしいでしょうか?」

「う、う~む……」


 予想外の展開に、エウィンは表情筋を緩めてしまう。

 二部屋借りるよりは宿代を抑えられる。そう思いながらもアゲハとの同室に抵抗を覚えてしまう。

 野宿の際は二人で雑魚寝をしているのだが、宿屋となると話は別だ。密閉空間ゆえ、状況はまるっきり異なる。

 だからこそ口を尖らせてしまったのだが、アゲハはこれ幸いと目を光らせる。


「構いません!」

「えぇ⁉」


 陰湿な性格とは思えないほどの勢いだ。好機であり、望んだ展開なのだから、食いつかずにはいられなかった。

 エウィンは気圧されてしまうも、そもそも選択肢は一つしかないのだから、困惑しながらも手続きを申し出る。


「じゃあ、それでお願いします……」

「かしこまりました。こちらにお名前をご記入ください」

「はい。エウィン……、アゲハ……と」


 羊皮紙に二人分の名前を記載し、一泊分の料金を支払えば、宿泊準備は完了だ。

 後は店員から鍵を受け取るだけなのだが、この女性はおしゃべりなのだろう、客に鍵を手渡すついでに世間話を始めてしまう。


「お二人は、傭兵さんかしら?」

「あ、はい。ルルーブ森林の魔物を狩りに来ました」


 嘘をつく理由もないため、少年は素直に打ち明ける。

 エウィンとしてはアゲハが上機嫌な理由を尋ねたいのだが、今は眼前との店員と話すことに集中する。

 年齢は四十代くらいだろうか? 人柄の良さそうな顔をしており、来客対応にも慣れていることから、長年ここで働いているのだろう。

 オレンジ色のエプロン姿も自然体だ。これがここの制服であり、汚れてはいないのだが、年季を感じさせる程度には部分的に色褪せている。


「若いのにがんばってるのね~。こんな夜遅くまで大変でしょうに……」

「本当は野宿のつもりだったんですが、色々あってここまで来ました。今日は混んでるようですが、収穫の時期でしたっけ?」

「ううん、客のほとんどは傭兵さん。なんでも王国で稼ぎにくくなったとか。二人もそうなんでしょう?」


 知らない情報だ。それゆえにエウィンは眉をひそめてしまう。


「いえ。僕達は腕試しのためなので……。依頼の数が減ったとか、そういうことが起きてるのかな? だとしたら何が? アゲハさんは何か知ってます?」

「ううん、わたしも初耳……」


 この二人の方が当事者だ。

 にも関わらず、この状況に首を傾げてしまう。


(明日、ギルド会館で訊いてみるか。僕達には関係なさそうだけど、同業者が集まっている以上、無知のままではいられない)


 傭兵にとって、情報は生命線の一つだ。

 金を稼ぐため。

 安全に魔物を狩るため。

 世間話には耳を傾けなければならない。

 究極の肉体労働ではあるのだが、その一方で情報戦の側面も有している。知っている者こそが、他者を出し抜けるからだ。

 考え込む二人を前に、店員は沈黙を嫌うように話しかける。


「一階の奥にお風呂もあるし、ゆっくりして行きな。夜は、これからだよ」


 小じわを強調するような、満面の笑顔だ。

 エウィンにはこの表情がマニュアル通りの接待なのか、男女の一夜を後押ししているのか、勘ぐってしまう。

 この発言にアゲハだけが顔を赤らめるも、少年は無視しして話を進める。


「汚れてるので、ありがたいです。ついさっき川にダイブして、せっせとここまで走ったので……」

「あらまぁ、シイダン川から走って来たの? 傭兵さんってすごいのね~」

「子供の頃とは言え、道は覚えてましたし、暗くても何とかなりました。んじゃ、アゲハさん、そろそろ……」


 店員との立ち話もそれはそれで有意義なのだが、エウィンとしてはそろそろ一休みしたい。

 巨大なリュックサックも軽くはない上、何より入浴が待ち遠しい。こういった機会でもなければ、熱い湯にはありつけない。

 同行人を言い訳にここを立ち去ろうとするも、女性は目を見開いて呼び止める。


「ま、まさか、あんた、あのエウィン、あのエウィンなの?」


 その声は震えており、呼び止められた方もまた、驚きを隠せない。


(しまった、途中から変顔を忘れてた。これは、バレたな……)


 受付の店員はこの地の住民だ。

 つまりは、十二年前の悲劇について把握していたとしても不思議ではない。

 それどころか関係者の可能性すらあり得る。

 その場合、どんな言葉で罵られるのか、想像するだけで心が重くなってしまう。

 そうであろうと腹をくくるしかない。


「きっと人違いでは? キリッ」


 覚悟を決めながらも、とりあえず足掻くことにした。

 その顔は厚化粧ですら再現出来ない変化だ。緩い童顔は屈強な漢に早変わりしており、眉毛もなぜか太くなっている。アゲハが昔の漫画を連想するほどには劇画タッチと言えよう。

 もちろんながら、エウィンの努力は無駄に終わる。


「ナービスのところの、エウィンなのかい?」

「あ、はい、そうです……」


 完全に言い当てられた以上、縮こまるように肩をすくめる。

 名簿に名前を書いてしまった。

 顔の偽装は早々に解いてしまっていた。

 十二年という時間が流れようと、多くの手がかりを与えてしまった以上、肯定しながらも身構えるしかない。

 しかし、少年の覚悟は杞憂に終わる。


「あんた、生きててくれたのかい。本当に、良かった……」


 ふくよかな女性の瞳から、一筋の涙がこぼれる。

 その態度は想定外だったため、エウィンは別の意味で困惑してしまう。


「僕は……、僕だけは、王国に逃げ延びられたんです」

「うんうん、良かったよ。あんたのお母さんは、本当に残念だったね……」

「え? 何かご存じなんですか?」


 受付の向こう側へ、エウィンは身を乗り出す。眼前の職員が母親について言及した以上、当然の反応だ。


「あんた達親子がここを去った次の日に……、遺体が見つかったの。ゴブリンの仕業だろうって……」


 記憶通りの事実であり、エウィンは息子として頷くことしか出来ない。


「あんたのお母さんは丁重に葬ったから、その点は安心しな」

「ありがとう、ございます……」

「それにしてもあんただけでも無事でいてくれて、私としても嬉しいよ。傭兵に捜索を依頼したけど手がかりも足取りも見つからなかったから、ゴブリンあたりに食われたんじゃないかって……」


 六歳の子供が一人で逃げ切れるわけがない。その予想は正しいのだが、エウィンに関しては当てはまらなかった。

 母が庇ってくれたから。

 この森の魔物を無意識ながらも避けられたから。

 そういった要因が重なった結果が、イダンリネア王国への逃亡に繋がった。


(ゴブリンは人間を食べませんよ、って指摘は野暮ってもんか。母さん、母さん……)


 エウィンの胸中は複雑だ。

 母が死んだ。その事実を他者から指摘されたことはこれが初めてであり、現実を受け止め直さなければならない。

 一方、店員は涙を拭きながら、エウィンとアゲハを見比べる。


「あんな小さな子供が、こんな立派になって……。しかも、おっぱいの大きな恋人まで連れてさ。私も大きい方だけど、腹も出てるから完敗だわ」


 さらに比較するなら、年齢も倍近くは離れている。

 女性の言う通り、店員用のエプロンは胸部の脂肪で随分と盛り上がってはいるのだが、腹部も妊婦のように立派だ。

 対照的にアゲハはそこまでふっくらしておらず、肉付きは良いもののバストだけが人並外れている。

 話題の変化が重たい空気を吹き飛ばしてくれたが、エウィンとしては誤解を解かねばならない。背後のアゲハが涎を垂らし始めたことからも、事実の伝達は最優先事項だ。


「僕達は傭兵仲間で、それ以上でもそれ以下でもないです」

「あへっ⁉」

「付け加えるのなら恩人的なのもありますが、まぁ、それでも友人兼仲間です」

「あへぇ……」

(い、いちいちうるさいな……)


 鳴き声のような反応に戸惑いながらも、少年は店員に正しい知識を植え付ける。

 自分達は夫婦でもなければ、恋人ですらない。

 誤解されたままでも困ることはないのだが、訂正したくなるほどにはアゲハが気持ち悪かった。


「あら、そうなのかい? あんた達、お似合いだと思うけどね~。ところで、さっきの顔は何だったんだい? 随分と男前だったけど」

「これですか? キリッ」

「そうそう。顔の骨格すら変わってるけど、傭兵ってそんなことも出来るのかい?」

「日々、鍛えてますから。キリッ」


 真実を伝えた後に、嘘を吹き込んでしまう。悪気はないのだが、話の流れ的に抗うことは出来なかった。


「ここの連中の大半は、あんたらを恨んでなんかないけどさ。だけど、未だに根に持ってる家族もいるかもしれない。その顔で他人の振りをするのも、案外ありかもしれないわね。悲しい方法だけど……」

「そのつもりで来たので覚悟はしてます。では、今日はお世話になります。キリッ」


 今度こそ世間話は終了だ。

 女性店員に一礼し、エウィンはアゲハを連れて階段を上がる。

 彼女のおかげで、胸のつっかえが取り除かれた。

 母は死んだ。

 死体は無事発見された。

 ルルーブ港の全員が、自分を恨んではいない。

 そういった事実を噛みしめながら、太ももを交互に持ち上げる。


(来た甲斐が、あったのかな。さっきのおばさんが優しかったから、そう思えるだけかもだけど……。まぁ、明日は誰かから石を投げられるかもしれない。そういった心構えはやっぱり必要そうだけど、それでも、勇気を出して本当に良かった)


 自身の過去と向き合えた。そう表現すると大げさなのだが、エウィンの心は幾分晴れやかだ。

 一歩を踏み出せたのか?

 そう思いたいだけなのか?

 どちらにせよ、目を背けていた自分はもういない。

 ここはルルーブ港。エウィンの故郷であり、十二年振りの里帰りが実現してしまった。

 それも一重にアゲハのおかげであり、彼女との邂逅以降、人生は大きく変わってくれた。

 強くなれた。

 守りたいと思えた。

 ならば、ここは通過点であり、明日からは改めて歩き出す。


(とは言え、精神的に疲れたから、少しゆっくりしたいな。ここにいても気は休まらないと思うけど……)


 階段を上りきり、三階へたどり着いたら今度は廊下を直進する。

 木製の床をコツコツ鳴らしながら、二人は指定された部屋を目指すのだが、エウィンはこのタイミングで思いつく。


「明日、ギルド会館に行ってみませんか? ちょっと聞き込みをしたくて……」

「うん、いいよ。気になる、よね……」

「はい。僕も詳しい方じゃないけど、王国の傭兵がこぞって押し寄せるなんて珍しいと思うんです。こことかヨーク村の人達が出稼ぎに来るケースはあっても……」


 ヨーク村は最南端の漁村だ。イダンリネア王国からは随分と離れており、人口も少ない。この大陸において最も歴史のある集落であり、周囲は荒れた大地ゆえ、ルルーブ港同様に漁業で生計を立てている。


「そうなんだ。じゃあ、明日も早起き、する?」

「いえ、焦らなくても大丈夫なはず。まぁ、ギルド会館はすぐ隣なので、結果的に早く顔を出すことになりそうですけど……」

「そうだね」


 話しながらも足を動かし続けた結果、彼らの眼前に目当ての扉が現れる。後は渡された鍵を鍵穴に差し込めば良いのだが、エウィンは静かに佇んでしまう。

 つまりは動かなくなったのだが、アゲハとしては不思議でならない。


「どうしたの?」

「実は、ベッドで寝るのって十数年振りなんです。なので、ちょっとドキドキ」


 貧困街のボロ小屋にはベッドはおろか布団すら用意しておらず、つまりは硬いレジャーシートの上で十二年間も眠り続けた。

 それでも眠れる体質だったことから困りはしなかったものの、宿屋に泊まれるとなると話は別だ。

 どうしても気持ちが高揚してしまう。

 もっとも、それは彼女も同様だった。


「私も、ド、ドキドキしてるよ。あへ、あへ……」

「あ、はい。んじゃ、さっさと入りましょう」


 アゲハが興奮してくれた結果、エウィンはあっさりと冷静さを取り戻す。

 さっと扉を開き、用意された部屋に足を踏み入れると、二つのベッドが出迎えてくれた。

 しかし、空間自体は広くはなく、不自由ではないものの自分達のリュックサックをどこに置くべきか、悩む程度は窮屈だ。


「ふむ、アゲハさんが入院していた個室よりは少し広いくらいかな? まぁ、住むわけじゃないし、全然問題ないですね」

「ここが、わたし達の……。あへ、あへ」

(この発作って病気か何かなのかな? 黙ってれば美人さんなのに……)


 設置されている家具もまた最低限だ。

 真っ白なベッドが二つ、密着はしていないものの並ぶように置かれている。

 木製のテーブルと、向き合うように二人分の椅子も常備済みだ。

 コートの類をかけるハンガーラックも用意されている。

 窓の外はすっかり暗い。

 対照的にこの部屋は室内用ランプのおかげで明るいのだが、エウィンは早々に寝てしまいたいと考えている。

 もっとも、彼女もある意味では同じなのだろう。背中から鞄を降ろすと、替えの下着や化粧水等を風呂敷のような袋に詰めて、そそくさと入り口へ向かいだす。


「さ、先にお風呂入って来るね……」

「どうぞどうぞ。まぁ、僕も……、ってもう行っちゃった。することないし、準備して向かうか」


 アゲハと違って急ぐ理由はないのだが、ここにいても退屈なだけだ。部屋の隅に巨大な背負い鞄を置き、下着と寝間着を取り出せば準備はあっという間に済む。

 大浴場は一階に用意されており、エウィンも少し遅れてそこへ向かうのだが、先に戻ったのもまたこの少年だった。

 アゲハは全身を念入りに洗っており、ましてやその黒髪は非常に長い。洗髪だけでも一苦労だ。

 その結果、エウィンは彼女の帰りを待たずに寝てしまう。

 悪気はなかった。

 ベッドの柔らかさと心地よさに抗えなかった。

 ただそれだけのことだった。

 無音の室内に、ギィと軋むような音が響く。

 続いて足音が入り込むも、彼女の頬は随分と赤い。


「お、お待たせ。心の準備なら……、あれ?」


 灯りのついた部屋に並ぶ、二つのベッド。

 その片方がこんもりと膨らんでおり、静寂ではあるのだが耳を澄ますと寝息のような音が聞こえてきてしまう。

 緑色の髪を伴った寝顔は、心底幸せそうだ。

 火照った体を持て余しながら、アゲハは少年の顔を眺める。

 その結果、邪念はあっさりと消え去ってくれた。理性を取り戻せた瞬間だ。

 ここからは早かった。荷物を手早く片付け、マジックランプを消灯させると、見習うように隣のベッドに横たわる。


「おやすみ。ありがとう」


 長かった一日とのお別れだ。

 瞳を閉じて心を静めれば、曖昧な時間が訪れる。

 疲れた体を癒すように。

 この世界を楽しむように。

 アゲハの意識がぼやけ始める。

 体がベッドと融合するような感覚。これが現実なのか錯覚なのか、それすらもわからない。

 わからずとも構わないのだろう。

 なぜなら、彼女もまた、既に寝息をたてている。

 イダンリネア王国を出発して、二日目の夜。

 アゲハを鍛えるための遠征は始まったばかりだ。

 計画の甘さが予期せぬ目的地に足を運ばせたが、傭兵にトラブルはつきものだ。反省しつつもこれに懲りず、今後もまい進するしかない。

 エウィンとアゲハ。彼らの足並みは揃っている。

 最終地点は未だ定まらないが、目標だけは揺るがない。

 日本へ帰す。

 日本に戻る。

 そのためには強くならなければならない。

 オーディエンと名乗った謎の魔物。これを倒すことで、帰還の手がかりが得られるのだから。

戦場のウルフィエナ~その人は異世界から来たお姉さん~

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