⧉▣ FILE_010: 無始 ▣⧉
それから、Aは「何も起きない日々」を過ごすことになった。
Lからの手紙はまだ存在していた。
捨てることもできず、見つかるのが怖くて、使っていないクッキー缶に入れて──夜中、スコップで中庭の地面に埋めた。
けれど土を触ると、どうしてだか、罪悪感ではなく、安堵が胸をよぎった。
パソコンも、今やAにとって“火種”のような存在。
Bが寝たあとにだけ、そっと電源を入れる。
Lからは何も来ない。
誰からもメールは来ない。
仕事も、命令も、暗号も──あの日以来、音沙汰ない。
何も起こらない日々。
波風も、雑音も、喧騒もない。
だからこそ……怖かった。
外出なんてできなかった。
もし、メールが届いたときに、それに気づけなかったら。
もし、Bが──あのパソコンに触れてしまったら。
その思いが、Aの足を縛った。
パソコンは、机の上に出しっぱなしにしている。ベッドの下に隠すことも考えたが、それではLからの緊急通信を逃す可能性がある。
パソコンのパスワードは強固に変更し、そのうえで、Aは“監視”を始めた。
ベッドに寝転がり、特に目的もなく、ただパソコンのスリープ画面を睨む。
通知は来ないか。
Lの名前は浮かばないか──
それだけが生きる理由かのように見つめている。
息を潜めるしかなかった。
“自分がLでいいのか”──
その答えが、あの画面の向こうにある気がして──────
「……」
昼食の時間になっても、Aは自室にいた。
画面は相変わらず音沙汰ない。スリープに入りかけた液晶が、Aの動きに反応してふわりと暗くなる。
「……今日も来ないや」
それを見届けてから、ようやくAは立ち上がる。小さく息をついて、廊下へ出た。
──食堂は、喧噪に包まれていた。
ちょうど授業から戻ってきた子供たちが列をなし、配膳台の前にはにぎやかな笑い声が飛び交っている。今日はテストの返却日だったらしい。点数や解答を見せ合いながら、誰がいちばんだったかで小さな論争が起きていた。
そして、その中心にいたのは──
──ロロ先生だった。
彼の周囲には、まるで囲むようにして子供たちが集まっており、もはや“押し寄せている”という方が正確だった。
先生は、あちこちから肩を叩かれ、腕を引っ張られ、ノートを見せられ、質問を浴びせられている。いつもの几帳面な身なりは見る影もなく、メガネは斜めにズレ、ネクタイは完全に逆方向を向いていた。
Aは少し離れた場所でその様子を見つめていた。
「……」
──懐かしいと思った。
昔、自分もあの輪の中にいたような気がする。
──楽しそうだな。
そんな感情を抱く自分が、少しだけ意外だった。
Aは目を逸らす。
その視線の先、食堂の隅っこで──ひとり、背を向けて座っている金髪の少年がいた。
ぐったりと肩を落とし、ナイフとフォークの動きに覇気がない。パンを一口齧っては、皿に戻す。Aは、少年メロの横顔に見覚えのある“影”を見た。
──ああ、また2番だったんだな。
成績表なんて見ていない。
それでも分かる。
メロはいつも、ああしてふてくされるのだ。
ひとりで、誰にも慰められず、悔しさを飲み込んで──
Aは、そっと歩み寄った。
背後からそっと手を伸ばす。メロの金髪に触れると、彼はびくりと肩を揺らしたが、振り返らない。
優しく、撫でる。たった一度。
「隣、いいかい?」
その言葉に、メロはようやく顔を上げた。拗ねたような目をしていた。けれど、Aを見て、少しだけ、表情が緩む。
返事はなかったが、Aは当然のようにその隣にトレーを下ろして座った。
背中合わせで笑い声が響く中、ふたりの間には、小さな沈黙が落ちる。
Aは慰めの言葉をかけなかった。いや、むしろ、かけないように気を使った。ただ、何気ない話を選ぶ。
「……ロロ先生、相変わらず人気者だよね」
ぽつりと。メロに向けたような、ひとりごと。
「先生がここに来たばかりの頃なんてさ──もっとヤンチャな子ばっかりで、てんやわんやだったけど、随分慣れたもんだよ」
「……そうなの?」
「うん……」
ふ、と懐かしそうにAは笑った。
「昔はさ、ロロ先生の机に爆竹しかけたり、メガネをゴーグルに改造したり、そのうち先生は“国家に雇われたスパイだ”なんてデマまで広まって、ここに警察が来たこともあったよ」
「……」
メロは黙っていた。スプーンを止め、ぎこちなくAを見たあと、困惑を隠せない顔で小さくつぶやく。
「……警察?」
「うん。まあ、“一応確認だけ”って名目だったけど。通報内容が“潜入スパイによる思想教育”だったらしくて……あれはちょっとした事件だったね」
「………………」
Aは、まったく気づいていなかった。メロが引いていることにも、話題がどこか重すぎることにも。
「昔のワイミーズはね、もっと自由だったんだ。セキュリティも今よりずっと緩くて、ほんとに“子供たちを育てる場所”って感じだった。天才を育てるための実験場みたいな……良くも悪くも、ね」
メロはスプーンを口元に運びかけ、止まったまま動かない。
「今じゃ、Lの後継者を育てるための“機関”になっちゃったけど。──方向が完全に変わったんだ。院長も変わっちゃったし……前の院長は……悪い人じゃなかったけど──ただ、“Lの後継者のための施設”じゃなくて、“子供たちが何かを目指せる場所”を作ろうとしてた気がする」
Aの言葉は、どこか遠くを見るように語られていた。
「でも、Lがあれだけの存在になって、後継者が必要になった時点で、もう“子どもたちの施設”じゃいられなくなったんだろうね。優しさや、遊び心よりも、“L”が優先されるようになってしまった……」
Aはパンをひとかじりしてから、小さく息をついた。メロに向けたわけではない、ただの独り言のような声で、でも確かに聞かせるように──ぽつりと、漏らす。
「僕はさ、ここが──“Lのための施設”じゃなくて、“僕たちのための施設”であってほしいって、ずっと思ってるんだ」
その言葉には、言いようのない願いと、僅かな痛みが滲んでいた。
「もちろん、Lになることが“目標”なのは分かってる。それが僕たちに課された意味で、与えられた役割だってことも。でも……それだけに縛られて、自分を削ってまでその役目にしがみつくのは──間違ってると思うんだ。だって、まだこんなに若いのに」
メロは横目で、そっとAの横顔を見た。
「もし、Lになれなくても──それで終わりなんかじゃない。ここで育ったってだけで、僕たちはすごいはずなんだ。“L以外の価値”が……ううん、“L以上の価値が”自分にあるってことを、どうか忘れないでほしい。僕も、君もね──」
──それから。
Aは、朝食会場を出た。食べ終えたトレーを片づけ、ロロ先生に軽く会釈を送ると、あとは一人で廊下を歩く。
誰とも話さない時間。Aは一つの“役割”に戻る。
扉を閉めたあとの音楽室には、音楽制作用のシンセサイザーと、ミキサー、譜面台。そして、“Aの世界”がある。
彼は、Lの座を任された天才である一方で──もう一つの顔を持っていた。
A──実はその名を世界に広く知られているのは、『作曲家』としてである。
今日も、Aは制作していた。
ノイズの中に旋律を編み込むように。ピアノの音に遠い機械音を重ねる、何度も繰り返しながら、未完成の楽曲に魂を入れて──
そして──曲は完成する。
Aはその音源データを丁寧に整え、あるクライアントに送信する。世界的な映画監督や、アーティスト。
彼の音楽はすでに国際的な映画祭でも使われており、業界では「Anima」という仮名で語られる ている。
“正体不明の作曲家”として。カルト的な支持を集めているけれど、音楽の天才であることと、「Lになること」が、全く別の問題であることは、A自身が一番よくわかっていた。
だからこそ──音楽に逃げるのではなく、音楽を通して、自分の“在り方”を証明しようとしていた。






