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王宮の庭に、春の香りが忍び寄っていた。 まだ風は冷たいけれど、土の匂いが柔らかくなって、芽吹きの気配が感じられる。
私は、王妃様の部屋で紅茶を淹れていた。 正式な“話し相手”になってから、部屋の空気は少しだけ変わった気がする。
「アイリス、今日の紅茶は…」
王妃様が一口飲んで、ふっと笑った。
「…渋みが、ちょうどいいわね」
私は、思わず笑った。
「それは光栄です、王妃様」
その瞬間、王妃様が少しだけ眉をひそめた。
「ねえ、アイリス。そろそろ“王妃様”じゃなくて“セレナ”と呼んでくれない?」
私は、手にしていたティーポットを止めた。
「…セレナ、ですか?」
「ええ。あなたは、私の“話し相手”であり、友人でもある。 名前で呼ばれる方が、ずっと心地よいの」
私は、少しだけ戸惑いながらも、うなずいた。
「…わかりました、セレナ」
その言葉を口にした瞬間、部屋の空気がふわりと柔らかくなった。 まるで春の風が、窓からそっと入り込んだように。
その日の午後、王子様が庭に現れた。 彼は、私を見ると、いつものように微笑んだ。
「アイリス、母上が“セレナ”って呼ばせたって聞いたよ」 彼は、少しだけ楽しそうだった。
「はい。まだ慣れませんけど…不思議と、嬉しいです」
王子様は、私の隣に腰を下ろして、空を見上げた。
「じゃあ、僕も“アイリス”って呼んでもいい?」
「今までも呼んでましたよね?」
「うん。でも、今までは“毒を食べたメイド”って印象が強かったから。 これからは“王宮の話し相手”として、ちゃんと名前で呼びたい」
私は、少しだけ顔を赤くした。
「…じゃあ、王子様も名前で呼んでもいいですか?」
彼は、驚いたように目を見開いた。
「僕の名前、知ってる?」
「ええ“レオ”ですよね」
その瞬間、彼は笑った。 春の陽射しみたいに、あたたかくて、まぶしい笑顔だった。
「じゃあ、これからは“レオ”って呼んで。僕も“アイリス”って呼ぶから」
名前で呼び合うだけで、こんなにも距離が近くなるなんて。 私は、胸の奥がぽっと温かくなるのを感じた。
その夜、セレナの部屋で紅茶を飲みながら、私は言った。
「セレナ、私…王宮に来てから、いろんなことが変わりました。 でも、名前で呼び合えるようになった今、ようやく“ここにいていい”って思えるんです」
セレナは、静かにうなずいた。
「あなたがいてくれて、私も変われた。 名前で呼び合う関係は、心を開く第一歩なのよ」
私は、紅茶を一口飲んだ。 渋みは、ちょうどよかった。
王宮の空気は、また少し変わった。 そして私は、名前で呼ばれることで、少しだけ自分を信じられるようになった。
赤毛のアイリス。 毒を食べた日から始まった物語は、 今、名前で呼び合う春へと続いている。
春祭りの準備で、王宮は華やかな空気に包まれていた。 庭には色とりどりの花が咲き、厨房では果実の香りが漂っている。 私は、セレナの部屋で花冠の飾りを整えながら、少しだけ浮ついた気持ちになっていた。
「アイリス、今夜のパーティー、楽しみにしてる?」
セレナが、紅茶を飲みながら言った。
「え?私は参加しませんよ。王族の集まりですし…」
「そう思うでしょう?でも、レオが“同行者”としてあなたを推薦したの」
私は、手にしていた花冠を落としそうになった。
「…推薦?私を?」
「ええ。彼が言ってたわ“アイリスがいると、空気が柔らかくなる”って」
私は、言葉が出なかった。 パーティーなんて、厨房の皿洗いの合間に遠くから眺めるものだと思っていたのに。
その夜、私は王宮の奥にある舞踏の間へと足を踏み入れた。 レオが、少しだけ緊張した顔で待っていた。
「…来てくれてよかった」
彼は、私の手を取って、そっと言った。
「私、場違いじゃないですか?」
私は、着慣れないドレスの裾を気にしながら言った。
「場違いなんてことないよ。君は、僕の“話し相手”であり、友人で…大切な人だから」
その言葉に、胸がぎゅっとなった。
舞踏の間では、貴族たちが笑い合い、音楽が流れていた。 私は、レオの隣で少しだけ縮こまっていたけれど、彼が話しかけるたびに、少しずつ肩の力が抜けていった。
「この果実のタルト、厨房のものより美味しいですか?」
私は、つい癖で聞いてしまった。
レオは笑った。
「君が味見していないなら、評価は保留だね」
そのやりとりに、近くの貴族がくすくすと笑った。
「レオ様、ずいぶん親しいご様子ですね」
私は、顔が熱くなるのを感じた。 でもレオは、堂々と答えた。
「彼女は、僕の大切な話し相手です。 正直で、信頼できて…王宮に必要な人なんです」
その言葉に、周囲の空気が少しだけ変わった。 私は、レオの隣で紅茶をすすった。 渋みは、ちょうどよかった。
パーティーの終盤、セレナが私に近づいてきた。
「アイリス、あなたがここにいることが、王宮の空気を変えてる。 それは、誰にも真似できないことよ」
私は、深く一礼した。
「ありがとうございます、セレナ。 でも…まだ少し、夢みたいです」
「夢でも、現実でも、あなたはここにいる。 それが大事なのよ」
その夜、私はレオと並んで庭を歩いた。 春の夜風が、赤毛を揺らした。
「アイリス、今日の君は…すごく綺麗だった」 レオが、少し照れたように言った。
「それ、ドレスの効果です」 私は笑って返した。
「いや、君自身のことだよ。 毒を食べた日から、ずっと変わらず綺麗だ」
私は胸が熱くなるのを感じた。 王宮の空気は、また少し変わった。 そして私は、また少しだけ、自分を信じられるようになった。