「ねぇ、一花……あの噂って本当?」
スーパーフードとかいう見たことのない茶色の実が大量に入ったサラダを食べながら美和子はニヤリと笑った。
美和子は同じ会社のマネジメント部、いわゆる秘書として働いていて、二人の時間が合う時には、こうして一緒に昼食をとる。
「秘書たるもの、あらゆる分野に置いて情報や知識を持っていないといけない」というのが美和子の口癖だけど、ただの噂話を情報と呼べるのかは毎回疑問が残るところだ。
「噂?何のこと?」
「アンタが中条君と付き合ってるって話よ」
美和子の言葉に、さっき口にしたばかりのサンドウィッチを詰まらせてしまいそうになった私はゴホゴホと咳き込んだ。
「やだ、汚い」
必死に息を吸い込みながらも、大きく首を振ってバカげた噂を否定した。
「でも、今朝から社内はこの話で持ちきりだよ?みんなの前で婚約発表した、とか朝礼抜け出して資料室でイチャイチャしてた、とか」
「ひぃぃ!誰!?そんな噂流した奴はぁぁ!」
「なによ、じゃあ全部ただの噂ってこと?せっかく面白いことになったと思ったのに」
「なんか、微妙に合ってるところもあるから否定しづらいっていうか……。いや、婚約発表なんてしてないし……。朝礼抜けて資料室には行ったけど、別にイチャイチャなんか――」
「…………」
「……な、なに?」
「キスくらいはした?」
「するわけないでしょ!!」
「そう?でも彼となんかあったのは事実なんでしょう?」
「……前に話した転校生、覚えてる?」
「うん」
「実は……中条太一がその転校生なの」
「なにそれ。めっちゃ楽しいやつやん」
「面白がらないでよ」
「それで、どんなこと話した?」
「別に……大したことは」
「あの時から好きだったとか言われて、プロポーズでもされた?」
「なんで当てちゃうかなぁっ!?これかなりぶっ飛んだ展開だと思うけど!?」
「いいじゃん、付き合っちゃえば。一花も彼氏とは別れたんだし、彼、評判いいよ?」
「そんな簡単な問題ならこんなに苦労してないよ」
「ああ、アレか。中条太一はダメ男センサーにかからなかった」
美和子の言葉に、私は観念するみたいに頷いた。
「私の知ってる太一くんと別人だった。努力して生まれ変わって、欠点なんてないくらい完璧で。……太一くんは私がいなくたって幸せじゃんって思った」
彼が今、笑っているのが嫌なわけじゃない。
変わってしまったのが悲しいわけじゃない。
それなのに、彼の前で私は上手く笑えなくて、心がどんどん乾いていくような錯覚を覚える。
そして改めて実感する。
「やっぱり私は、どこか頼りなくて危うくて、私の存在を必要としてくれる人がいい。私が傍にいてあげないとダメな人がいい」
そんな私の言葉を聞いて美和子は一言「そう」と答えた。
そしてまた、何度も同じ道に進んでしまう私を、美和子が本気で心配してくれているのは分かっている。でも、この気持ちは自分自身でもどうすることも出来ないのだ。
「……ね、一花。今日飲みにでも行く?トコトン付き合うよ」
「美和子ぉ、好き」
「嬉しくないわ」
「ひどい」
一軒目、二軒目と飲み歩き、いい感じに気持ちよくなってきた私たちが次に足を運んだお店はテーブル席が2つとカウンターがある落ち着いた雰囲気のBARで、カウンターの内側でグラスを拭いていた2人の男性スタッフが「いらっしゃいませ」と微笑んで私たちを迎い入れる。
「こんな店があるなんて知らなかった」
「ね。雰囲気もいい感じ」
カウンターに腰を下ろしドリンクを注文すると、カウンター越しのバーテンダーがすぐに手際よく飲み物を作り始め、シャカシャカとシェイカーの音がリズムよく響く。
「ねぇ、中条君の中学時代はどんな感じだったの?」
美和子は目の前にいる男性の仕事ぶりを凝視しながら、まるで見ていることをカモフラージュするみたいに話を切り出した。
「どんな感じ……?うーん、常に猫背で下を向いて歩いてて、挨拶とか返ってこないし、話しかけても無視だったし、目も合わせてくれなかったよ」
「うわ……なにそれ。それでよく心折れなかったね」
「だって、教室で一人ぼっちの太一くんを見るとどうしても放っておけなくて」
「正義感も時には困ったものね。でも私、ひとつ気になることがあるんだけど」
「お待たせしました」という声と共に私の前にカクテルが置かれた。
透き通るような淡い水色をしていて、グラスの淵のサクランボの赤が映える綺麗なカクテルに目を奪われていると、美和子は赤とオレンジが綺麗な層になっているカクテルを持ち上げ、口をつけて飲んだ後、言った。
「中条君は一花のこと「一花ちゃん」って呼んだのよね?で、一花は彼のことを「太一くん」って呼んでる」
「うん。……?」
話の意図が見えない私は美和子の次の言葉を待った。
「聞き方変えるわ。一花が下の名前で呼ぶ人ってどのくらいいる?」
「えーと、親、兄弟、あと美和子でしょ。それと……今まで付き合ってた人たちとか……?」
「でしょ?それってみんな一花と親しい人達とか恋人だよね?」
「そう……だね」
考えながら返事をする。
思い出した顔ぶれについ最近別れたばかりのヒロシの顔が浮かんで、不覚にも一瞬「会いたいな」なんて思ってしまった。
「ここで質問。なんで一花は彼のことを「太一くん」って呼んでるの?話したことも、目が合ったことすらないのに」
別のことを考えていたところに急に出題された問いは簡単そうなのに、どうしてか私の中には答えがない。
仲の良かった友達を名前で呼ぶことはあったが、美和子の言う通り、私と彼は「友達」なんかじゃなかったはずなのに私はずっと彼のことを「太一くん」と呼んでいる。
「え!なんで!?」
「本人が分からないんだから私に分かるわけないでしょ。アンタたち本当は仲良かったんじゃないの?」
「いや、それはない」
「じゃあ、2人の間には言葉とか会話がなくても意思疎通をするための手段があった……とか?」
「言葉や会話がいらない意思疎通……?」
過去の記憶を思い返しながらそうしたのがまずかったのか、グラスを持ち上げたときに手を滑らせてしまい、カクテルは一滴残らずテーブルに零れ落ちた。
「わッ!」
「ちょっと、大丈夫!?」
「お客様、大丈夫ですか?」
「すみません!」
「服は汚れませんでしたか?」
「あ、……はい」
「良かった」
ハンカチを差し出し、不意に向けられた笑顔に胸が高鳴る。
それが顔にでも出ていたのか、男性の肩越しに目が合った美和子は両手を握り合わせ上下へ振るようなジェスチャーの後、大きなバツを作る。
それは「バーテンダーはやめとけ」の合図。
「同じものをおつくりしますね」
「本当にすみません」
「いえ、気にしないでください」
「でも、せっかく綺麗に作ってもらったのに……」
「……うーん、じゃあお詫びとして僕とデートするっていうのはどうですか?」
「へ?デート……?」
「はい。いらっしゃった時から綺麗な人だなと思ってて。俺、もうすぐ仕事終わる時間なので一杯、付き合ってくれると嬉しいです」
ハッとして顔を見合わせて、私と美和子はアイコンタクトだけで会話をする。
(この人、慣れていらっしゃる……!?)
(こいつ常習犯だわ!こうやって客に手を出してきたクソ男に違いないよ!)
(やっぱりそう!?ときめくわけだ!ダメ男センサー鳴りっぱなしだわ)
「あのー」
「は、はい!」
「一杯だけです。ダメ、……ですか?」
もうあんな思いはしたくないと思いつつ、今度こそ運命の人かもしれないと次の恋に希望を抱いてしまう自分に心底呆れる。
「い、一杯だけなら……」
「あの!もうこの人酔ってるんで連れて帰ります。だから――」
「あと30分程で終わるので少し待っていて下さい。あ、飲みたいドリンクあれば注文してくださいね。もちろん俺のおごりです」
そう言って去っていた背中を見送った30分後――
大した量は飲んでいないのに、自分でも驚くほど酔いが回っていて、隣にいた美和子は「アイツ、わざと強く作ってる」と呟いて、私からお酒を奪い取った。
「ねぇ、一花。このままだと私まで潰されてアンタの面倒見られなくなるから、その前に帰ろう?」
「うぅ~、みわこぉ。私、なんでフラれちゃったのー浮気現場だった部屋になんか帰りたくないよ」
「あの男のことは今すぐ忘れて、早く引っ越しなさい!ほら、立って!帰るよ!!」
「あれ?帰っちゃうんですか?ひどいじゃないですか。俺に付き合うって約束しましたよね?」
肩に手が置かれ、視界一杯に男の顔が映る。
話の内容ですら、正常に理解出来ていない頭で彼の言っている約束を必死に思い出そうと試みた。
「約束……」
「――なんてしてない」
割り込むように誰かの背中が視界を遮る。
誰だろう、この人は。
最後に考えていたのはそんなことだったと思う。
それからは意識がぷっつりと切れて、深い深い静かな暗闇で、懐かしくて、胸が温かくなるようなそんな夢を見ていた気がする。