テラーノベル
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放課後の教室には、西日のオレンジ色と、埃が舞う静寂だけが溜まっていた。
中原中也は、窓際の席で気怠げに頬杖をつく少女、太宰治の背中を眺めていた。緩やかに波打つ黒いロングヘアが、傾いた陽光を透かして微かに茶色く煤けて見える。彼女は細い指先で、使い古された文庫本のページをめくるでもなく弄んでいた。
「……おい、太宰。いつまでそうしてんだ。掃除当番、もう終わったぞ」
中也が声をかけると、太宰はゆっくりと、まるでスローモーションのようにこちらを振り向いた。その顔には、いつも通りの、人を食ったような薄い笑みが張り付いている。
「おや中也。まだいたのかい? 私を置いて、さっさと部活にでも行けばよかったのに」 「……お前を残して帰れるかよ。どうせまた、変なところで寝こけて鍵かけられるのがオチだろ」
中也は溜息をつきながら、彼女の隣の席に腰を下ろした。二人の距離は、あと数センチで肩が触れ合うほどに近い。付き合っているのかと聞かれれば、二人は声を揃えて「まさか」と否定するだろう。けれど、クラスの誰もが二人の間に流れる空気には踏み込めない。言葉にせずとも、体温の共有が、視線の交差が、互いへの執着を雄弁に物語っていた。
太宰はふいにと、中也の手を自分の方へ引き寄せた。指を絡めるわけではなく、ただ自分の細い手首の上に、中也の荒れた大きな掌を重ねさせる。
「ねぇ中也。私の心臓の音、聞こえる?」
冗談めかした口調。けれど、中也の掌に伝わってくる鼓動は、驚くほど速く、そして頼りないほどに小さい。
「……うるせぇよ。生きてんだから動いてるだろ」 「ふふ、そうだね。でもね、この機械仕掛けの心臓は、案外わがままなんだ。いつか勝手に、お休みを言ってしまうかもしれないよ」
中也はわずかに眉を寄せ、重ねられた手を強く握り返した。 「……そんな不吉なこと言うな。お前はしぶといんだ、俺が死ぬまで隣で嫌がらせし続けるんだろ」
中也のその言葉に、太宰は一瞬だけ、まつ毛を震わせた。 彼は知らない。太宰が毎朝、鏡の前で自分の青白い顔色を確認し、隠すように薄く紅を引いていることを。主治医から「二十歳を越えるのは奇跡に近い」と告げられ、それを記した診断書が、職員室の金庫の中で重い秘密として眠っていることを。
学校の教師たちは、彼女を「いつ消えてもおかしくない、硝子細工の特別枠」として扱っている。体育の授業は常に見学。顔色が少しでも悪ければ、すぐに保健室へ行くように促される。けれど、中也だけは違う。彼は彼女を「ただの生意気で、放り出せない相棒」として、対等な熱量で隣に置き続けている。
その熱が、太宰にとっては、何よりも愛おしく、そして何よりも残酷だった。
「中也は、未来の話をするのが好きだね」 「当たり前だろ。来年は受験だし、その後は……」 「二十歳になったら、一緒にワインでも飲もうか。君はきっと、お酒に弱くてすぐに赤くなるんだろうね」
太宰は中也の目を見つめて、いたずらっぽく笑った。その瞳の奥には、決して叶わないと知っている約束への、深い絶望が隠されている。二十歳。彼女にとってその数字は、決して辿り着けない砂漠の蜃気楼のようなものだった。
「……ああ。そん時は、お前の奢りだぞ」 「ええ、いいよ。私の命の次に大切な貯金を使ってあげよう」
太宰はそう言って、中也の胸元に頭を預けた。 細い体躯は驚くほど軽く、抱きしめれば折れてしまいそうだった。中也はその重みに、漠然とした不安を覚えながらも、彼女の頭をぶっきらぼうに撫でる。
「……太宰」 「なあに」 「お前、最近痩せたんじゃねぇか? ちゃんと食ってんのか」 「失礼だね。女の子に体重の話は厳禁だよ」
軽口を叩き合いながら、太宰はそっと目を閉じた。 中也の胸板から伝わる、力強く、規則正しい鼓動。それは彼女が喉から手が出るほど欲しい「明日」の証だった。
「中也……もし、私が明日から来なくなっても。君はきっと、私を見つけてくれるよね」
それは、ほとんど祈りに近い囁きだった。 中也は一瞬、言葉に詰まった。彼女の言葉が、ただの構ってほしい冗談ではないような気がして、心臓が嫌な跳ね方をした。けれど、彼はそれを振り払うように、低く、けれど確信に満ちた声で答える。
「……当たり前だ。地の果てまで追いかけて、引きずり戻してやる」
太宰は満足そうに口角を上げた。 嘘つき。 彼女は心の中で、愛しい名前を呼んだ。 地の果てまで追ってきてほしいなんて、本当は思っていない。私が死んだら、君には私のことなんてさっぱり忘れて、誰か別の女と、普通の、終わりのない幸せを手に入れてほしい。
けれど、口から出たのは別の言葉だった。
「……約束だよ。中也」
彼女がその約束を破らなければならない日は、確実に、刻一刻と近づいている。 オレンジ色の光は、気づけば紫がかった夜の気配に飲み込まれようとしていた。
二人の影が、床の上で長く、どこまでも長く伸びている。 それがいつか、中也一人の影になることを、彼はまだ、夢にも思っていない。
中也はただ、腕の中の、少しだけ冷たくなった彼女の肩を、温めるように強く抱き寄せた。
「……帰るぞ。冷えてきた」 「そうだね。今日は、暖かいスープでも飲もうかな」
立ち上がった太宰の足取りは、ひどくおぼつかない。 中也はそれを当たり前のように支え、彼女の鞄を代わりに持った。 二人の足音が、静まり返った廊下に響く。
それは、永遠に続くかのような、あまりにも脆い日常のメロディだった。
西日が、長い影を路面に焼き付けていた。 二人は並んで歩く。足音は、乾いた土を蹴る音だけが響く。 中原中也は、太宰治の鞄を肩に掛け、不格好な足取りで歩みを揃えていた。
太宰の横顔は、夕闇に溶けそうなほどに白い。 黒い髪が、微風に吹かれて彼女の頬を撫でる。 彼女は時折、胸元を掌で抑えるようにして、深く息を吐き出していた。
「……中也」
「ああ?」
「もしも、今日という日が一生続けばいいのに、なんて願ったら、君は笑うかい」
太宰の声は、掠れて消えそうだった。 中也は歩みを止めず、前を見据えたまま鼻で笑った。
「笑わねぇよ。だが、そんな願いは退屈だろ。明日があるから、今日が楽しいんじゃねぇのか」
中也の言葉は、真っ当で、力強かった。 明日の朝には目が覚めて、また同じように学校へ行き、放課後にはこうして二人で帰る。 彼にとっての未来は、疑いようのない一本の道として続いている。
太宰はその道が、自分の足元でぷつりと途切れていることを思い知る。 二十歳という節目。 それは彼女にとって、大人の仲間入りをする祝いの日ではなく、呼吸が止まる期限でしかなかった。
「……そうだね。中也の言う通りだ。明日は、もっと楽しいかもしれない」
太宰は嘘を吐いた。 心臓の奥が、不意に鋭く疼く。 彼女はそれを悟られぬよう、わざと中也の腕に抱きついた。 細い腕が中也の体温を求めるように絡みつく。
「おい、離せよ! 暑苦しいだろ」
「嫌だよ。中也が私を放り出すから、私がこうして繋ぎ止めているんじゃないか」
太宰は中也の肩に顔を埋めた。 彼の着ている上着からは、石鹸の香りと、彼自身の生命力に満ちた匂いがした。 それを吸い込むだけで、自分の中の淀んだ血液が、ほんの少しだけ熱を取り戻すような気がした。
「……お前、今日は一段としつこいな。何かあったのか」
中也の声に、微かな懸念が混じる。 彼は鋭い。太宰の僅かな変化も見逃さない。 けれど、太宰はそれを「恋の悩み」という仮面で覆い隠した。
「何もないよ。ただ、君があまりにも格好良いから、誰かに取られないか心配になっただけさ」
「馬鹿言え。誰が俺なんかを……」
中也は顔を赤くして、不器用に視線を逸らした。 その純粋さが、今は何よりも苦しい。 彼が自分の死を知った時、この赤い顔はどれほど青褪めるだろう。 この優しい瞳は、どれほどの涙を流すだろう。
太宰は、自分の心臓に問いかける。 あと何度、この人の隣を歩けるのか。 あと何度、この人の名前を呼べるのか。
「ねぇ、中也。指切りをしよう」
太宰は立ち止まり、小指を差し出した。 中也は怪訝そうな顔をしながらも、自分の小指を彼女の細い指に絡める。
「なんだよ、唐突に」
「約束して。私がどこに行っても、君は君のままでいて。私のために泣いてもいいけれど、私のために立ち止まらないで」
「……意味が分からねぇよ」
中也は眉を潜めたが、指を解こうとはしなかった。 太宰の指先は、ひどく冷たかったからだ。 彼はその冷たさを打ち消すように、自分の指に力を込める。
「お前がどこに行こうが、俺が連れ戻すって言っただろ。変な約束させようとすんな。……行くぞ、家まで送ってやる」
中也は太宰の手を引いて、再び歩き出した。 引かれるままに歩きながら、太宰は微笑む。 その微笑みは、沈みゆく太陽の最後の一閃のように、美しく、そして儚かった。
言葉にすれば、全てが壊れてしまう。 自分は死ぬのだという事実も、中也を愛しているという告白も。 だから彼女は、何も言わずにその背中を見つめ続ける。
中也の背中は、夕焼けよりも熱く、頼もしかった。 それがいつか、遠ざかっていく幻になるまで。 太宰は彼の手を、壊れ物を抱くように握り締めていた。
家までの短い道のりが、永遠に感じられるほどに愛おしかった。
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