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「イナリが蝶を食べたんですよ。注意したら、逃げていきました」
『ハハハハハ。狐の嫁入りだ、その程度の事は仕方が無いな。アイツ等相手じゃ、理解するってよりも、妥協する事の方が大事だぜ?』
「妥協、ですか?」
『そうさ、物事には妥協することも大事って事。俺達のスケールじゃ、はかり切れない事が世界には満ち溢れている。こちらの世界に足を踏み入れたんだ、覚悟は必要だぜ?』
笑いを含んだ那由多の言葉。だが、その言葉には真理が含まれているような気がする。
「そう、ですよね……」
イナリと典晶は何もかもが違うのだ。外見が人に近づいたと言っても、中身は神様なのだ。生活習慣だって違うし、寿命だって風俗だって違うだろう。長くいればいるほど、その違いが見えてくるだろう。そして、些細なズレはいずれ大きくな溝になるかもしれない。
『土曜日まで、あまり凶霊には近づかないでくれよ』
「はい、分かりました」
典晶は那由多に礼を言うとスマホを切った。
妥協が必要。那由多の言葉が耳に残っていた。妥協することが悪いとは言わないが、一生を決めることを妥協する事ができるだろうか。もしも、本当にイナリと結婚をするのなら、那由多の言う『妥協』が何処かで必要になるのかもしれない。いや、相手が人間の女性だとしても、結婚という人生の一大イベントでは、どこかしらに妥協が必要なのかもしれないが。
クゥ~ン
気がつくと、イナリが典晶の側により悲しそうに首を傾げていた。
「………いや、何でもないんだよ。なんでもないんだ」
典晶は腰を屈めるとイナリの頭を撫でた。
「典晶! 何してるの? 早く行かないと学校遅れるわよ」
洗濯物が入った籠を手に、歌蝶が縁側から庭へ降りてきた。歌蝶はほっかむりをし、たすきを回していた。
「ああ、うん」
典晶は頷くと縁側に置いてあった鞄を手に取った。
「じゃあ、行ってきます」
「ちょっと! 典晶!」
庭先から出ていこうとする典晶を歌蝶が呼び止めた。
「イナリちゃん忘れているわよ! ちゃんとバッグに入れて持って行きなさい!」
「母さん、その言い方はペット以下の物扱いじゃないか!」
「あら? そうかしら?」
洗濯物を干しながら、歌蝶は朗らかに微笑む。見ると、イナリは指定席となりつつあるバッグの中に一人で入りちょこんと座っていた。
「……もういいや、行くぞ」
バッグを肩に掛けた典晶は小走りに家から出た。
「おい! おいおいおいおい!」
予鈴が鳴り響く学校に到着した典晶に、文也がイスを蹴飛ばしながら駆けつけて来た。
「おう、どうした? そんなに慌てて」
「慌ててじゃねーよ! お前、聞いてないのか? D組じゃ、今臨時のホームルームを開いているところだぜ?」
「D組?」
典晶の脳裏に黒井の凶霊が思い浮かんだ。そして、文也の一大事が凶霊に直結していると感じたのは、たぶん間違いではないはずだ。果たして、それは正解だった。
「今朝、教室に一番最初に入った女子生徒が、首を吊った幽霊を目撃したらしい」
「見間違いじゃなくて?」
「一緒にいた友達も見たんだってさ。一人や二人じゃない、五人が同時に幽霊を見たって言って、今は気分が悪いから保健室にいる」
「美穂子は? あいつは無事か?」
「特に連絡は来てないな。お前のとこには?」
言われ、典晶はスマホをチェックする。すると、通話アプリに美穂子から連絡が入っていた。どうやら、彼女は幽霊を目撃した人の一人らしい。今は保健室におり、早退すると言っている。
「美穂子も幽霊をみたらしい。今は他の生徒と保健室にいるみたい。もう少しで早退するって」
「そうか……。あいつの事だから、メンタル的に心配はしてないが……」
美穂子の心配はしていないが、黒井真琴の凶霊はやはり危険な存在だ。
クゥン……
ひょっこりとバッグからイナリが顔を出した。典晶は焦ったが、誰もこちらに注意を向けていなかった。各人、幽霊の話で持ちきりだったからだ。
その日、朝のホームルームではD組で起きたことが簡単に説明されたが、原因は分からないと言っていた。当然、教師は黒井真琴の幽霊を信じるはずもなく、D組で不審な事件が続いているという事実。そのストレスによって、幻覚を見たのではないかと言っていた。理由を知っている典晶はもちろん、生徒達も誰もその話を信じようとはしなかった。