聖ヴィクフォレータの恩寵寺院の西の塔を管轄しているのは蓋の書庫と呼ばれるさらに下位部門の組織だ。魔導書の封印を所掌している、とされている。
しかし、とシャリューレは考える。ここは桃の皮のように防備が薄い。壁の魔法はともかく、ジェスランが特務機関の元総長だったとはいえ、このように容易く無力化される防衛部隊に魔導書を任せるとは思えない。焚書機関であれば最弱の第二局の焚書官でもこのざまはないだろう。
とはいえ、とシャリューレは考える。ジェスランに、そしてあの剣に、ただの魔法以上の何か底知れぬものを感じた。何かを見誤っているとすればジェスランを、なのかもしれない。
西の塔、ジンガの書庫はそれだけで一介の寺院よりも遥かに巨大な建築物だ。テンヴォの羽根模様だけではなく、積まれた大理石の目地にまで魔法の気配を漂わせている。しかし入り口の扉の前には衛兵が一人いるばかりだった。
衛兵がシャリューレを制止する。「どちらへ?」
シャリューレは戸惑ってみせる。「え? はい。そうですね。ジェスランさんに呼び出されまして」
衛兵の億劫そうにため息をついて言う。「彼は今しがた帰ったばかりですよ」
「おかしいですね」そう言ってシャリューレは懐から羊皮紙を取り出す。「ここに来いとのことでしたが」
羊皮紙を覗き込んだ衛兵は膝から崩れ落ち、青い顔で白い息を吐いて倒れる。シャリューレが羊皮紙を片づけると衛兵の血の気は戻ったが、意識はしばらく戻って来ない。
シャリューレは古めかしく色づいた扉を易々と押し開き、中へと入る。真っ直ぐと、そして左右の壁に沿って通路が伸びている。薄暗い廊下にはぽつりぽつりと燭台が並んで、墓守が携えているような仄かな光を投げ掛けている。閉まる扉の軋む音以外には何も聞こえない。耳当て付きの帽子の下でシャリューレは間取りを思い浮かべ、まるで用心していないかのように堂々と真っ直ぐに進む。いくつかの扉を通り過ぎ、ほどなくして見つけたのは下へと続く階段だ。この先の最下層の扉にジェスランは忍び込めなかった。
幽かな風にも揺れる綿毛のように鋭敏なシャリューレの感覚に人の気配を感じる。慎重に、音を立てないように、夏の沼地の星影の如く忍び歩く。普通は他部門の修道尼がここへ来ることなどないだろう。見つかった時の言い訳は考えてあるが、どれも頼りにはならない。
いくつかの扉を無視して地下深くへと潜る。たどり着いたのは魔術的な菩提樹の装飾が施された銀の扉の前だ。
固く閉められた錠にシャリューレは右手をかざす。その指先から氷柱のように五本の氷が伸びて、蛇のように絡まり合うと新たな腕を形成し、錠の穴へと侵入する。その穴に潜んでいた錠に触れるものを焼き尽くす魔術と錠を壊そうとする者の脳をかき混ぜる魔術は氷漬けになった。
シャリューレは氷の剣を形成すると錠を叩き斬る。響く音は最小限に抑えた。人の気配はまだあるが、動きはない。ゆっくりと銀の扉を押し開く。
扉の向こうは真っ暗闇だが、周囲を見渡すと枝付きの燭台を見つけた。扉を閉めて中に入り、残り僅かな蝋燭に火の呪文を擦り付ける。
侵入者の明かりに淀んだ暗闇は退いていく。ジンガの書庫の底に広がっていたのは球形の広間だ。いくつかの層に分かれており、その最上層にシャリューレはいる。そして層を貫くように吹き抜けがあり、中心には各階へ橋を伸ばす螺旋階段が凝然と立っている。
シャリューレは迷うことなく螺旋階段を降り、各層の様子を確認する。
書物の並ぶ層の書棚は歯抜けになっており、瓶や箱に詰められた資材の層は在庫に乏しい。ある層の温室ではあるべき植物が枯れて彩りを失い、小動物を一揃い飼っていたらしい層は腐臭が漂い、おぞましい生き物と生きていない物が床を這っている。最下層は何もない石造りだが何かがあった痕跡は十分にある。呪文が記され、陣が敷かれ、焼け焦げた跡や血の跡、何者かの獰猛さを示す爪の跡がある。
魔法使いの工房。そしておそらく魔導書を研究している場所に違いない。本当に、こんな所に魔導書を封印しているのか、という心の中の疑念の霧が晴れかけた、が期待は外れた。
研究記録の層を見つけ、残された記録を読むに、この工房は既に打ち棄てられている。その旧主はメヴュラツィエ、かつて恩寵審査会の総長を務めた聖尼、高位の尼僧であり、その所業に反して今は聖人に列せられている。
シャリューレは何か魔導書の在り処を示す手がかりはないかと記録を探す。とはいえ重要な記録は既に回収されているらしい。魔導書について分かったことといえば、やはり魔導書は救済機構総本山であるジンテラ寺院群全体に分散しているということだ。
聖尼メヴュラツィエの記録は少ないが、その弟子クオルなる人物の記録は軽視されたらしく、割合多く残っていた。その尼僧はメヴュラツィエの研究の傍ら、自身の研究として人造魔導書に携わっていたらしい。ジェスランに聞いていた話とは少し違うが、確かにメヴュラツィエと人造魔導書研究の進展は繋がっているようだ。
一つ、ここから重要な資料を浚っていった者たちが興味を惹かれなかったらしい記録にシャリューレは気づく。それはやはりクオルの研究で、見過ごされたこととは裏腹に、彼女の熱意が伝わる記録だ。その研究全体を称して『禁忌の転生』と呼んだようだ。
その時、何かの気配にシャリューレは気づく。いくつか上の層で死骸を這いまわっている蛆や名を持たない何かではない。最下層に何かがいる。初めからいたのではなく、いま現れたのだとシャリューレは確信する。
研究記録の層の縁の手すりから下を覗き、燭台の明かりをかざす。子供の喘息のような音が聞こえるが、姿は見えない。
シャリューレは慎重に螺旋階段を降りて、最下層へと至る。燭台の弱々しい光でもほとんど何もない最下層の隅々まで光が届いている。にもかかわらず何もおらず、しかし疲れ果てた者の吐息のような音は変わらず聞こえる。まさか地の底に隙間風が吹くわけもなく、かといって音の方向を探ろうにもまるで見当がつかない。
ただ音が聞こえるだけならばもういっそのこと無視して戻ろうか、と考えた矢先、何者かが腰の辺りに触れ、ほとんど同時にシャリューレの冷たい刃が背後の空を切る。氷の刀は石の床を切り裂いて折れ、次に備えて新たに形成される。シャリューレに触れた者を斬った手ごたえはなかった。
「ようやくこうして出会えたのにご挨拶だね」と誰かが言った。男か女かも分からない子供の声だ。
「何者だ」シャリューレは氷の剣を解かして言う。
「警戒しなくて良いの?」
「それが必要な相手なら私はもう死んでいる」
「確かにね」と言って子供の声はくすくすと笑う。「申し訳ないけどまだ名前は名乗れないんだ。それでもまずは貴女に信頼してもらいたい」
「無理だと思うが」とシャリューレは落ち着いて答える。
「まあ、普通はそうだよね。だからまずは貴女に協力するよ。とはいってもせいぜい情報を与えるくらいしかできないけど、でもこの魔法のおかげで情報を手に入れるのは簡単なんだ」
シャリューレは腰の辺りの感触を思い出すようになでて言う。「さっき私に触れたようだったが」
「その程度の感触を与えることならできるよ。首を絞めたり、低体温症に陥らせたりはできないけど」
確かに筒抜けだ。
「護女か?」
「どうして?」
「護女の適性の一つに霊体への親和性がある。各種の関連魔術の習得は重要な修養の一つだ。心霊治療や悪霊祓いの他、亡霊を慰めたり、生霊を飛ばしたり」
しばらくの間をおいて「まあ、知ってる人は知ってるか。うん。その通り。自慢じゃないけど護女の中でも特別に得意なんだ」と謎の護女は肯ずる。「別に隠そうとしたわけじゃないよ。今言おうとしたところだったんだから。それに……こちらのことはいいよ。まずは目の前の危機を脱出しよう」
何の話かと思ったが、シャリューレの耳にも不吉な兆しが聞き取れた。最上層、何者かが数人、足を忍ばせて入って来た。少なくとも閉じていた扉を軋ませない程度には忍ぶことに長けているらしい。シャリューレは燭台の火を消し、吹き抜けの中心の螺旋階段の陰に隠れる。
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