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あや
制服に着替えて更衣室を出ると、タイミングの悪い事に里奈が目の前に立っていた。
いつもの、天真爛漫を装った親友の笑顔。けれど今の穂乃果には、その笑顔がひどく薄っぺらで、貼り付けたお面のように不気味に見えた。
「あ、穂乃果おはよう! 昨日の雨凄かったね。急に振り出したからびっくりしちゃった。って言うか、穂乃果は大丈夫だったの?」
「……っ、ま、まぁ……」
言いながら里奈が駆け寄ってきて、慣れ々れしく腕を絡めてくる。その瞬間、鼻をつく安っぽい香水の匂いに、穂乃果の眉がわずかに動いた。昨夜、自分を骨抜きにしたあの深く甘いムスクとは、似ても似つかない。
「って言うか、あの気の強そうな女の人誰? 穂乃果の知り合いよね? なんか、あんな気が強そうな人と穂乃果が知り合いだなんて意外だったな」
「……」
どうやら、里奈はナオミが本物のの女性だと思っているらしい。それはそれで好都合。余計な詮索をされずに済む。
「あの、もういいかな? 病棟に行かないと」
「あっ! 待ってよ。大事な話があるの!」
「大事な話?」
一体、何の事だろうか? もしかして、まだ浮気に気が付いていないとでもいうつもりか? それとも、開き直ったか――。
「大事な話って、なに?」
努めて冷静に問い返すと、里奈は周囲を気にするように声を潜め、困ったような、けれどどこか楽しげな表情を作った。
「あのね、昨日真鍋先生と一緒にいたのは本当に誤解なの! たまたま近くで会っただけ。真鍋先生、穂乃果と連絡が取れなくてすごく心配してたよ? 何怒ってるのかわからないけど早く仲直りしてあげてよ。ちゃんと話したら誤解も解けるでしょ? ね?」
直樹との仲を修復させようとする、必死な言葉。
以前の穂乃果なら自分さえ我慢すれば丸く収まると俯いていたかもしれない。けれど、今の穂乃果の瞳には、冷ややかな透明感が宿っていた。
(……里奈は、今でも私が『何も知らない馬鹿な女』だと思っているんだわ)
裏で自分を裏切り、直樹の隣で一緒になって勝ち誇った顔をしていたであろう女が、今は「良き理解者」の顔をして復縁を勧めてくる。その滑稽さと醜悪さに、穂乃果は心の底から冷めた笑みが漏れるのを感じた。
「悪いけど、私はよりを戻すつもりはないの」
「えっ? どうして?」
「どうして? あのね。昨日も言ったけど……。私の貯金全額使い込んでたの。信頼関係なんてその時点で地に落ちたわよ。あ、そうだ里奈。 私はあんな奴必要ないから貴方にあげる。 里奈って、ずっと医者と結婚するんだって言ってたもんねぇ。よかったじゃない二人でお幸せに」
極めて冷静な、温度の低い声だった。
里奈の顔から、みるみると血の気が引いていく。
「えっ……? ちょっと、それじゃ困るのよ!」
咄嗟に漏れた里奈の言葉はおそらく本心からくるものだろう。
愛する親友の幸せを願う言葉にしては、あまりにも打算的すぎる反応だ。
「困る? どうして里奈が困るの? 私が身を引くんだから、あなたにとっては万々歳でしょう?」
穂乃果のどこまでも冷ややかな問いかけに、里奈は泳ぐように視線を彷徨わせた。
「それは……だって……穂乃果と直樹さんが結婚しないと、ずっと応援してた私まで気まずいじゃない……」
その反応を見て、確信してしまった。里奈の狙いは、直樹が「院長の娘」である穂乃果と結婚し、病院での地位を盤石にすること。そして自分はその傍らで、親友の顔をして甘い汁を吸い続けること――。
直樹との不倫も、ただの火遊びではなく、穂乃果の居場所を内側から侵食するための優越感に過ぎなかったのだろう。
「ふぅん、そう。でも大丈夫。私の事は気にしないで。 堂々と直樹と付き合っちゃえばいいのに。 話はそれだけ? 悪いけど、遅刻したら師長に怒られるから先に行くね」
「えっ!? ちょっと!穂乃果っ!」
背後で里奈が何かを叫んでいる気がしたが、もうどうでもよかった。
ナースステーションへと続く廊下を、穂乃果は迷いのない足取りで進んでいく。
背中に突き刺さる里奈の視線が、驚きからドロリとした執着へと変わるのを感じたが、不思議と怖くはなかった。
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