僕が今日も学校から図書館を経由して帰ると、妹がやけにそわそわした様子でリビングに居た。
「どうしたの?」
「い、いや、何でもない」
明らかに何でもある様子の妹に、僕は全知全能でその理由を調べようかと思ったが、止めておいた。人のプライバシーを詮索したところで、碌なことなど起こらないのだ(二敗)。
「それより……兄貴、あれから茜さんには会った?」
「会ってないよ。会う機会も無い」
そっか、と妹は答えた。やっぱり、炎の女帝こと紅蓮の女番こと茜さんのことが気になるんだろう。そわそわしているのも、それが原因かな。
「分かんないけど、あんまり詮索しない方が良いと思うよ」
「……何で?」
「そりゃ、茜さんって怖いからね。不良だってビビり散らすくらいなんだから、一般人の僕らが関わるべきじゃないでしょ」
「えぇ、それって酷くない? 茜さんは悪い人じゃないのに、悪い奴がビビってるってだけで私たちがビビってたら可哀想だと思う」
うーん、一理ある。実際、助けて貰った立場で僕は茜さんにちょっと薄情なところはあるかも知れない。でも、僕の秘密の一端を知っている存在が怖いのは仕方ないと思う。別に、僕は茜さんがヤンキーの女帝だからビビっている訳じゃない。
「でも、迷惑かも知れないよ。少なくとも、僕は自分のことを知ろうとする人間なんて居ない方が嬉しいね」
「……それって、寂しくない?」
「うんにゃ、別に」
僕は机の上に置かれていた袋入りのクッキーを一枚取って、二階の自室に戻った。
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兄が自室に戻ったのを見て、柚乃は懐から小さな紙を取り出してまた眺めた。それは兄である宇尾根 治が茜より受け取った事務所の位置が記された紙であり、柚乃にとってはついさっき学校帰りのその足で向かった場所が記された紙であった。
兄の態度におかしな部分を目敏く見つけた柚乃は、この紙こそが茜に繋がる鍵であると確信して今日の放課後にそのまま御岳相談事務所へと向かった。
事務所の入り口が見える位置で人を待っているフリをして携帯を弄りながら立っていた柚乃は、誰かがその事務所へと入っていくのを見た。
小さいのが一人と、同じくらいの高さの人が二人、少し間をおいてから、更にもう一人が事務所へと入っていくのを見た。
だが、どうにもその入っていた人間の顔を、思い出せなかった。髪の色も、目の色も、髪型も美醜も、思い出せない。
何かがおかしい。でも、周囲の人間は誰も気付いていない。自分だけがその異常に気付いているのは何故か。それすらも分からずに、柚乃は期待と不安を胸に事務所のブラインドで内側の見えない窓に近付いた。
「ッ!?」
閉め切られたブラインドの僅かな隙間から、事務所の中を覗き込んだ。そこには、厳めしい顔つきの体格の良い男と、鮮烈な赤髪の美しい少女が向かい合ってソファに座っていた。そして、柚乃の頭の奥で直感的に最後に事務所に入った人間とこの少女が、茜が結び付く。
なんで? どうして、どうやって?
疑問は恐怖に変わり、窓から飛び跳ねるように顔を離した柚乃は、跳ね回る心臓を抑えて逃げ帰って来たのだ。
茜は何者なのか? 他の人間は? そもそも、あの事務所は一体何なんだ? この異常を、兄は知っているのか? 湧いて出る無数の疑問を解決することは出来ず、一人になるのも怖くなった柚乃は明るいリビングでクッキーを貪っていた。
「……どうしよう」
このまま居れば、心臓の動悸は収まるのだろうか。この不安は、そわそわとした気持ちは治るのだろうか。だとして、自分はそれで満足できるのか。
少女は再び立ち上がり、リビングを三周歩き回った後に二階の自室へと戻り、着替えと支度を済ませて家を出た。
足は未だに震えているが、大丈夫だ。転んだりはしないし、外からは不格好にも見えていない筈だ。そうして、緊張と恐怖に歩く速度が鈍っても、結局のところ事務所へは到着してしまった。
「よ、よしっ!」
相談事務所と書いてあるからには、何かしら相談を受ける仕事をしてる場所の筈だ。話す予定のことはもう決めていた。
柚乃は窓も全てブラインドで閉じられた事務所の、細い路地にある薄汚れた扉に手を掛けた。普段なら絶対に関わりたくないような佇まいのこの事務所に、柚乃は勇気を出して一歩踏み出そうと、ドアノブを回して押し込んだ。
ガチャっと、つっかえる音がして扉には鍵がかかっていることに気付いた柚乃は、そこで扉の隣にインターホンがあることに気付いた。
「あ、あっ……」
焦る柚乃だったが、もうここまで来たなら行ってしまえとインターホンも押し、扉の前でじっと待った。
「どうした?」
出て来たのは、ゴツい男だった。体格が良く、背も高く、厳めしい顔をした中年の男。その顔には深い傷が入っており、明らかにカタギでは無いことを知らせていた。
「あ、いゃ、えっと、間違え……」
柚乃は迷った。ここで退くのは簡単だ。でも、そうすれば二度とチャンスは来ないかも知れない。ここが、正念場である。
「じゃ、ないです。あの、相談って、何を聞いてくれるんですか?」
「うちは話を聞いてやる場所じゃなくて、悩みを解決してやる場所だ。アンタの悩みが俺達に解決できそうなものなら、報酬次第で受けてやる」
低い声で言われた柚乃は、悩んだ末に答えた。
「……学生料金って、付きますか?」
彼女の財布には、二万円しか入っていなかったからだ。
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