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引っ越しを考えはじめたのは、朝の光がやけに部屋の隅を白く照らしていた日だった。
ワンルームの狭さに飽きたわけではない。
ただ、あの部屋が、自分の身の丈に対して妙に“余裕のなさ”を映すようになったのだ。
新しい物件を探しに不動産屋へ行くと、担当の女性・中村が書類を揃えながら柔らかく笑った。
「こちら、人気の物件でして……今日もすでに問い合わせが何件か」
「大家さんって、どんな感じの人なんですか?」
「うーん、そうですね。慎重な方、です」
その微妙な言い方に、
“貸すか貸さないかはわからないけれど、
とりあえず見に行ってみましょう”というニュアンスが透けていた。
物件は駅から徒歩八分。
建物は古いが、廊下には植物が並べてあり、誰かが丁寧に住んでいる空気があった。
案内されたのは角部屋だった。
窓から入る風は静かで、壁紙には小さな影が柔らかく揺れていた。
「ここ、いいですね」
そう言うと、中村は少しだけ戸惑うように笑った。
「気に入っていただけたなら嬉しいんですが……
実は、この部屋の大家さん、
審査で“人柄”をすごく気にされるんです」
「人柄?」
「そうなんです。書類だけじゃなくて、
お人柄を見て判断されるタイプで……今日はお会いできます」
案内された先には、白いシャツを着た高齢の大家・大森がいた。
品のある顔立ちで、目は優しそうだが、
何かを判断する癖を長く続けてきた人特有の沈黙をまとっている。
「どうぞ」
その一言だけで、貸す意思があるのかどうか、まだどちらにも転ぶ余地があるのがわかった。
「お仕事は?」
「会社員です」
「勤務は長い?」
「六年です」
大家はうん、と頷きながら、言葉よりも間を慎重に扱っているようだった。
「騒がしいのは好きじゃなくてね」
「静かに暮らすつもりです」
「夜更かしは?」
「……まあ、ほどほどに」
その答えに、大家は薄く笑った。
“正直かどうか”を試していたのだと気づく。
「良いですね。正直なのは、安心します」
中村が横で小さな安堵の息をついた。
—ああ、この部屋、貸してもらえるかもしれない。
そんな期待がふと胸に浮かんだ、そのときだった。
「もうひとつだけ」
大家は真剣な顔でこちらを見た。
「人を、頻繁に泊めたりはしませんね?」
予想より深く突っ込んだ質問に、返事が一瞬遅れた。
その“間”を、大家は敏感に受け取ったらしい。
「いえ……まあ、たまに」
「たまに?」
「月に一度あるか、ないか、くらいで」
その曖昧さを含んだ答えを、
大家は黙って噛みしめるように聞いていた。
「——今回は、見送らせていただきます」
静かに、しかし揺るぎなく、そう言った。
「え……」
中村が声を失う。
こちらも言葉がすぐには出てこなかった。
「すみません。
部屋というのは、貸す側と借りる側の“距離感”が大事なんです。
あなたは、正直で良い方だと思う。
でも……“自分だけの生活”と“他人との生活”を
きっちり分ける感覚が少し薄いように見えた」
核心を淡々と突かれた。
痛いほど静かな拒絶だった。
断る理由を、人格否定になるほど強い言葉で言わず、
しかし逃げ道も残さない“やわらかい拒み方”。
その技術を長く磨いてきた人の言い方だった。
「僕は……そんなに迷惑かけないつもりですが」
「迷惑とは限らないのですよ。
ただ、私の物件はそういうことに敏感な方が多くてね。
ごめんなさいね」
ごめんなさい、と言われたのに、謝っているようには聞こえなかった。
その丁寧な拒絶の空気の前で、こちらは何も言えなくなる。
貸してもらえなかったのに、 理不尽に怒るほどの理由もない。
だけど、静かに胸の奥を押されるような痛みだけが残った。
「行きましょうか……」
中村がそっと促し、二人で建物を出た。
外の風は妙に明るく、期待がひとつ消えたあとの空いた場所をやけに軽く撫でていった。
駅へ歩く途中、中村がつぶやいた。
「すみません……ほんとに、惜しかったんですが」
「僕の答え方が、悪かったんですね」
「いえ……正直に答えてくださったの、私は良かったと思います。
あの大家さん、“曖昧さ”をすごく嫌うんです。
少しでも見えない部分があると、不安になるタイプで」
東山はゆっくり息を吐いた。
貸す・貸さないの境目は、必ずしも良し悪しで測れるものじゃない。
ただ、その人の尺度に合うかどうかだけなのだ。
「……まあ、縁がなかったんですね」
そう言うと、中村は微笑んだ。
「きっと、ぴったりの場所ありますよ。
“たまに”を許してくれるところが」
その言い方が、ほんの少しだけ救いになった。
その夜、今のワンルームに帰ると、部屋の狭さが前より少しだけ優しく思えた。
拒まれた痛みは残ったままだが、それが不思議と、
“生活のほうが自分を選び直した”みたいな感覚に変わる瞬間があった。
借りたい場所に拒まれる日もある。
でもそれは、自分が悪いわけではなくて、ただ、その部屋が“違う人を待っていた”というだけなのかもしれない。
そんなことを考えながら、
電気をつけずに、しばらく窓の外の光を眺めた。