【現実世界・聖環医療研究センター/駐車場】
エンジンを切ったあともしばらく、三人とも誰も動かなかった。
フロントガラスの向こうに、白い建物が静かに立っている。
外来棟のガラス壁だけが、夜の光を薄く反射していた。
「……行く前に、一つ」
ハレルは、胸元のネックレスにそっと触れた。
金属の冷たさの奥に、ほんのわずかな鼓動のようなものがある。
「セラ。繋げる?」
呟いた瞬間、視界の端がほんの少しだけ“二重”になった。
車内の暗がりの奥に、別の空間の輪郭が薄く重なる。
《聞こえてるよ》
耳の奥ではなく、頭の中に、柔らかい声が落ちてきた。
セラの声。そのさらに奥で、誰かが早口で数字を並べている。
《ノノさん、急いでまとめてください》
《まとめてる! これ以上は簡単にできない!》
ぼやけた魔術スクリーンの光。
細い塔――オルタ・スパイアのシルエット。
短いフレーズだけが、断片的に流れ込んでくる。
《ハレル。こっちの準備、だいたい揃った》
セラが言う。
《さっき、三人分の“器側”の状態をノノが再計算した。
今夜、条件が揃えば――一気に“繋げられる”》
「三点同期……ですか」
ハレルが息を呑むと、別の声が割り込んだ。
ノノの、少し早口の声。
《簡単に言うと、こう。
病院の“器”と、ケースの“コア”と、
ハレルの主鍵、それからリオとアデルの副鍵――
全部を同時に“同じ座標”に乗せる》
《オルタ・スパイア側で境界を少しだけずらす。
そっちが病棟でコアを器に近づけた瞬間が、合図になる》
頭の奥で、小さな地図と数式が、一瞬だけ形を持つ。
すぐに霧みたいにほどけた。
《長くは保てない》
ノノの声が、少しだけ低くなる。
《大きく座標を重ねれば、その分だけ歪みが残る。
でも、何もしないと、いずれもっとひどい形で繋がる》
《だから今日、“一度だけ”やる》
セラがまとめるように言った。
《オルタ・スパイアと、この病棟。
それから、三人分の器とコア。
全部を“再会させる”ために》
「……ユナさんは」
ハレルは、思わず口にしていた。
《ユナさんは、あと》
ノノの声が、短く区切る。
《あの人だけは、器がこっち側にある。
リスクが違う。順番を間違えたら、全員巻き込まれる》
《まずは三人》
セラが静かに言う。
《その三人をちゃんと戻せたら――その先で、ユナの番を作る》
その言葉に、胸の奥のどこかが少しだけ軽くなった。
不安は消えない。でも、“手順”がある。
「……分かりました」
ハレルは、小さく息を吸う。
「合図は、器のベッドでコアを近づけた瞬間、ですね」
《そう》
ノノが答える。
《そっちの心拍と境界の揺れが跳ねたタイミングで、
こっちからもスパイアを“押す”》
《長くて、数十秒》
セラの声が、少しだけ真剣になる。
《その間、そっちは絶対に離さないこと。
全部終わったら――すぐに離れて、逃げて》
「了解です」
ハレルが頷いた瞬間、二重になっていた視界が、すっと元に戻った。
車内の暗がり。外の白い建物。
境界は、“まだ”離れたままだ。
「……今の、セラ?」
助手席のサキが、少し不安そうにこちらを見る。
「うん。向こうの作戦も、だいたい聞けた」
ハレルは笑おうとして、うまくいかない笑顔になった。
「一度だけ、大きく揺らすつもりみたいです。
こっちが失敗したら、多分、世界ごとまずい」
「さらっと怖いこと言わないで」
サキが小さくため息をついた。
それでも、目の奥はしっかりしている。
木崎が、運転席でシートベルトを外した。
「決まりだな。……行くか」
「はい」
ハレルはケースの取っ手を握り直した。
◆ ◆ ◆
【現実世界・聖環医療研究センター/ロビー~第七特別病棟】
夜間受付のロビーは、昼間よりずっと広く見えた。
自動ドアが静かに開き、冷たい空調の風が頬を撫でる。
受付カウンターの中には、眠そうな顔の事務員が一人だけ。
「すみません」
木崎が、慣れた調子で声をかけた。
首から提げた記者証を、さりげなく見える位置に出す。
「長期昏睡患者の家族会の件で、取材の約束をしていた木崎です。
今日は、事前に伺っていた“実際の病棟の雰囲気”だけ見せていただければと」
事務員が、端末の画面を確認する。
木崎から送っておいた、簡単なメールの記録。
「事前相談」の文字。
完全な嘘ではないギリギリの線。
「……ご家族の同席は?」
「もちろんありません。
今日はあくまで“環境”の確認だけです」
木崎が、あくまで穏やかな声で言う。
「こちらは助手で、メモ役。
病室の中には勝手に入らないことを約束します」
受付が少しだけ迷ってから、ナースステーションに内線を入れた。
確認の短いやり取りのあと、壁のランプがひとつ点く。
「では、こちらの職員通路から。
看護師が一人、入り口までご案内します」
「ありがとうございます」
木崎は深々と頭を下げた。
ロビーから奥の廊下へ。
途中で、目を伏せたまま夜勤の看護師とすれ違う。
(今は、まだ“普通の病院”だ)
そう自分に言い聞かせながら、ハレルはケースを抱え直した。
案内された先に、小さなエレベーターがある。
「職員専用」と書かれたプレート。
看護師は三階のボタンを押し、
「エレベーターを降りた先が、特別病棟フロアです。
あまり長くは回れませんので」
とだけ言って、その場に残った。
扉が閉まり、エレベーターが静かに上昇を始める。
「……ここから先は、俺たちだけだ」
木崎が低く言う。
「三階の廊下を左に曲がって、ナースステーションの手前で右。
そこに職員用の連絡扉がある。暗証番号は――さっきのメモのやつだ」
ハレルは頷き、ネックレスにそっと触れた。
胸の下で、微かな熱が揺れる。
(次に“繋ぐ”のは、そこで)
◆ ◆ ◆
三階の廊下に出ると、空気が少し変わった。
患者用のエリアより、さらに静かだ。
床のワックスの匂いと、遠くの機械音だけが耳に触れる。
「こっちだ」
木崎が歩幅を一定に保ちながら進む。
ナースステーション前をさりげなく通り過ぎ、角を曲がる。
灰色の金属扉。
【職員専用】の小さなプレート。
横にはテンキー付きのロック。
「……鍵」
ハレルが小声で言うと、木崎はポケットから折りたたんだ紙片を取り出した。
「城ヶ峰が“おまけ”でくれたデータだ。
暗証番号六桁。ここから先は、完全にアウトだぞ」
「とっくにアウトです」
ハレルも小さく笑った。
木崎が数字を打ち込む。
ピ、と短い電子音。
ロックが外れる音が、やけに大きく感じられた。
扉を開けると、細い連絡通路が続いている。
その先に、もうひとつ扉。
《第七特別病棟》
印字されたプレートを、一瞬だけ見てから、二人は中へ入った。
◆ ◆ ◆
特別病棟の廊下は、薄暗かった。
足元に沿ってフットライトが点いているだけで、
天井の照明はほとんど落ちている。
壁の時計が、秒針だけを静かに進めていた。
ナースステーションは、角の向こう側。
今は人影が見えない。
「番号……ここだ」
木崎が、壁に貼られたベッド配置図を素早く確認する。
指先が、三カ所をなぞった。
「七〇三、七〇四、七〇六。
行方不明者リストの三人分が、このフロアにいる」
ハレルは、ケースの中の四つの光を思い浮かべた。
(佐伯蓮。村瀬七海。日下部奏一――
それから、まだ名前のない一人)
奪われた一つのコアは、もうここにはない。
だが、残り四つのうち三つは、“帰る先”がこの病棟にある。
「まずは、確認だ」
木崎が囁くように言う。
「どの状態で、どう繋がれているか。
それを見てから、ノノたちと決めた“順番”に沿って動く」
「はい」
ハレルは、廊下のプレートに目を走らせる。
《703》
《佐伯 蓮》
プレートの文字が、胸の中の琥珀色の光と重なった。
扉の前で、一度だけ深呼吸をする。
(ここから、始まる)
ハレルは、そっとドアノブに手をかけた。
佐伯蓮。
村瀬七海。
日下部奏一。
――そして、異世界の塔の下で待っている、観測者たち。
全員を同じ座標に揃えるための、最初の扉が、静かに開こうとしていた。






