中世ヨーロッパ、スイスの端にある目立たない田舎町で、愛しい人が寂しげに呟いた。
「本当に行かれるのですか?」
彼女が俯いたと同時に、サラサラと綺麗な髪が愛しい人の顔を隠す。
「はい、私は領主としての責任があるのです」
彼女の髪は一等綺麗だが、彼女の顔を隠すとするなら話は別だ。
愛しい人の顔を隠す髪を、手を伸ばして、耳にかける。そうすると、綺麗なグリーンの目が自分をとらえる。
その瞳は悲しげに揺れているが、彼女は何一つとして文句を垂れなかった。彼女は表情は分かり易いが、とても芯のある強い人だ。
「…少し寂しいですが、仕方ないですね」
私も、本当は彼女を連れて行きたい。でも、今は難しい。自分は貴族の生まれで、責務を果たさなければならない。そして彼女はただの平民で、私と彼女が結ばれる可能性は無きに等しい。
けれど、彼女との結婚を諦めきれない私は、それを確実にするために、彼女を置いていかなければならない。
「すまない」
声は無意識のうちに震えていた。彼女の前では強くあろうと思ったのに、彼女から離れないといけないとなると、すぐこれだ。
男が情けない。
彼女はふっと笑った。この笑顔に、何度救われただろうか。
刹那、自分の配下が近寄ってきて、声をかける。
「領主様、出発の準備ができました」
もう、そんな時間か。
「わかった、すぐ行く」
返事をすると、配下は空気を読んでくれたのか、分かりましたと下がっていった。
目の前の彼女に視線を戻すと同時に、彼女が勢いよく抱きついてきた。
驚いたが、普段口下手な愛しい人の甘える姿に、すぐに破顔一笑する。
抱きついてきた彼女の背に、手を回す。
抱きついてきた彼女の腕に、力が込められたような気がした。
2人は強く、強く抱きしめ合う。
「すぐ戻ってくるさ、君は寂しがり屋だから」
「ふふ、私に会いたいだけでしょう?」
雨も降ってないのに、服が濡れた。
それは、彼女の綺麗な涙だった。
「また、必ず会いにくる。」
「はい、ずっと待っています」
震えた声で、精一杯だと言わんばかりの笑顔で、自分を送り出してくれた。
嗚呼、愛しい彼女の元に、早く帰りたい。
—数ヶ月後
「領主様、お忙しい中失礼します!」
バンっと勢いよくドアが開かれた。いつも冷静な配下が、こんな事をするのは初めてだ。
嫌な予感がする。
「どうした、緊急か?」
「はい、実は…○○村が、紛争に巻き込まれたと」
時間が止まったような、気がした。
配下の詳しい紛争の報告など、耳に入ってこない。○○村、愛しい人が住む村だ。紛争?どこのどいつの戦だ。いや、そんな事は今どうでも良い。彼女の安否は?無事なのか?
「彼女は 無事なのか」
配下の息を飲む声が聞こえた。
「…現地は危険な為、まだ情報が新しく回ってこず…生死はわかりません」
生死がわからない。ということは、つまり…どちらかだ。死んだか、生きているか。
「っ、○○村に行く」
「!お待ちください、領主様。危険すぎます。この土地は領主様を失えば終わりです」
「私は、彼女を失えば終わりだ!」
部屋を飛び出して、駆け出した。
「では、私が現地へ赴きます。貴方様が行くメリットが御座いません!」
「ならばこれは命令だ、この地を守れ!」
「○○様、お待ちください!」
冷静に考えれば、私が行くメリットなどどこにも無い。逆に紛争の中に領主が行くなどデメリットでしかない。
だが、だが…彼女は、今正にその紛争の中なのだ。
自分を慕ってくれてる配下を命令だと突き放し、必要最低限の装備をつけて馬に跨り走らせた。一分一秒でも早く、彼女をこの瞳にうつらせたかった。
「どうしたんですか?」と笑う、彼女の優しい笑顔を見たかった。
愛しい人は、ただの肉塊となっていた。
「あ…ああぁ…あああああ……!」
なんで
どうして
彼女が何をした
会いにくると約束したのに
なんで生きててくれなかった?
違う、自分が遅かった
彼女の美しい面影もない。
汚い黒髪が散乱しているだけ。
それでも、自分は彼女だとわかってしまう。
彼女の黒髪は一等綺麗だったから。
嫌だ、認めたくない。彼女は死んでない。
でも、自分の心がこれは彼女だと言う。
よろよろと近づき、 転がった肉塊を抱きしめる。
ただただ冷たく、ぐちゃりとなにかが潰れる音がするだけで、気持ち悪い。
震える手で腰にぶら下げた短剣を、鞘から引き抜き、自分の首に添える。
すまない、すぐそちらに行くから。
どうか許してほしい。
君も、約束も、自分の責務も護れなかった自分を、どうか許してくれ。
君の許可も得ず勝手に君の後を追う私を許してくれ。
短剣に力を入れて鈍い音がすると同時に、激痛と共に意識が途絶えた。