「回って……ない……」と、私は呟いた。
「はっ?」
「いえ……」
寿司とか……言うんじゃなかった――。
またもタクシーに押し込まれて、連れて来られたのは部長のマンション近くの寿司屋。マンションから定食屋とは逆方向にあった。
回ってないし!
値段もないし!
何、頼めばいい!?
回っていない寿司屋は、伯父さんと桜と来たのが最後。
あの時は、伯父さんが注文してくれたから……。
伯父さんが店のメニューの全てを注文しようとして、私が慌てて止めたことを思い出した。
「食えないネタ、あるか?」
部長が聞く。
「ありませんけど……」
「おススメで二人前」と、部長が板前さんに言った。
「天ぷらはどうします?」
「もらうよ」
こんな高そうなお店の常連さん……?
部長のお給料って、マンション買ってこんなお店に通えるほど良かったっけ?
そう言えば、女の子たちが部長はお洒落でリッチだって言ってたっけ……。
時計が限定品だとかなんとか……。
私はブランド品や宝飾品に興味がない。
派手でブランド品好きな母親の影響だろう。
次から次へとブランド品や宝飾品を買い漁り、ろくに使わずに放置。
もともちお嬢様育ちで、それなりに裕福な男性に嫁いだのだから、まあ仕方がないと言えばそれまで。けれど、私には理解できなかった。
部長も贅沢を好むのかな……。
けど、それなら定食屋は……?
「……る。……馨!」
「え?」
「天ぷら! 揚げたて、食え」
「あ、はい。いただきます!」
私はカウンターの天ぷらに箸を伸ばした。皿に移し、わずかに塩をふって口に入れる。
衣がサクサク、エビがプリプリ!
「美味しい!」
「ありがとうございます」と、板前さん。
「お前、料理すんの?」
「まぁ、人並みには。けど、天ぷらって難しいんですよね。油は跳ねるし、サクサクしないし」
「ふぅん……」
「こんなに美味しいの食べたら、余計に自分じゃ作らなくなっちゃう」
久し振りに美味しい料理を堪能し、心から幸せを感じた。それはきっと、料理が美味しいからだけじゃない。定食屋のうどんもそうだったけど、一人じゃないからだ。
仕事以外で誰かと食事するのなんて、いつ振りだろう……。
「所作がお綺麗ですね」
箸を置いた時、板前さんに言われた。多分、六十代。とても柔らかく微笑むおじさま。
「ありがとうございます」と、つられて私も微笑む。
「お前って……どっかのお嬢様?」
「え?」
「箸の持ち方も食べ方も綺麗だし、こういう店でも気後れしないから」
「気後れしてますよ。値段のないお店なんて、自分じゃ入れないですもん。けど、委縮してたら美味しさが半減しちゃうじゃないですか」
「なるほどな」と言って、部長が笑った。
「そろそろ出るか?」
「はい。あ、私お手洗いに行ってきます」
トイレから戻ると、会計は済んでいた。
「ご馳走様でした。とても美味しかったです」
「ぜひ、またいらしてください」
大満足で店を出た。
「じゃ、帰るか」
「はい。今日もご馳走様でした。失礼します」
私は深々と頭を下げた。部長が持っている私の鞄に手を伸ばす。
「ああ。……って、おい?」
「……」
私は力を込めて鞄を引き取ろうとするが、無駄だった。
「何、つらっと帰ろうとしてんだよ」
「いえ? 普通に帰ろうと……」
「帰すわけねーだろ」
そう……ですよね……。
部長に口説かれているから。だけじゃない。
黛のこと……だよね。
忘れてくれないかな、と願った。食事している間、話が出なかったから。
「とりあえず、俺ん家行くぞ」
「え」
「ホテルの方がいいか?」
「いえ。解散て選択肢は――」
「ねーよ!」
ですよね……。
「じゃあ、せめてファミレスとか――」
「そんなに軽い感じで話せる内容なのか?」
「いえ……」
「安心しろ。無理強いはしない」
部長は私の鞄を人質代わりにして、歩き出す。
「したくせに……」
「本気で嫌がってなかったくせに」
思い出して、恥ずかしくなる。
「やっぱり帰ります!」
「那須川」
急に冷静な低い声で名前を呼ばれ、ビクッとした。
「冗談抜きで、黛を放っておいていいのか? お前独りでどうにか出来るのか?」
「それ……は……」
部長に手を引かれ、私は黙ってついて行くしかなかった。
どこまで話すべき……?
そもそも、部長を巻き込んでいいの?
けど、今更何でもないなんて通用するはずがない。
マンションまでは歩いて十分ほどだったけれど、どう歩いたのかは全く覚えていなかった。
部長は黙って、ただ私の手を握って歩く。
この手に縋れたら――。
そう願ってしまうほど、部長の手は温かかった。
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