テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
橘靖竜
473
なつみかん
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
SCENE 01 ランディング・ウィズアウト・スーツ
降下機の腹が、
低く震えていた。
振動は床から膝へ上がり、
肋へ届き、
そのまま喉の裏に残る。
人間は立ったまま、
前方の透明な面を見ていた。
外には、
幾重にも重なった枝の影がある。
枝は上へ伸びているのに、
根まで空へ向かっているように見えた。
幹は太く、
輪郭はまっすぐではない。
地面のほうが、
生きものの背のようにゆるく盛り上がっている。
表示は落ち着いていた。
数値は安定し、
警告は出ない。
酸素濃度。
気圧差。
浮遊粒子。
体表刺激。
呼吸負荷。
どれも、
降りてもよいと示していた。
それでも、
扉の前に立った人間の指は、
無意識に掌を握り込む。
装備担当が背後で動き、
鉄具が小さく触れ合う。
誰も急がない。
扉が開く前には、
たいてい数秒の沈黙がある。
その沈黙の長さで、
降りる場所の印象が決まることが多い。
長すぎると、嫌な土地になる。
短すぎると、油断した土地になる。
ここは、
ちょうどいい長さだった。
乾いたようで、
湿っているようで、
何かを待っている感じだけがあった。
扉の継ぎ目に沿って、
外の匂いが先に入ってくる。
草に近い。
土に近い。
けれど、
どちらでも終わらない。
人間は鼻の奥でそれを受け止め、
目を細める。
生身で降りる。
その決定はすでに終わっている。
訓練用の文句も、
確認の手順も、
今さら口に出す者はいない。
ただ、
誰かが肩を回した。
誰かが靴先で床を二度鳴らした。
人間は自分の手袋を見た。
硬い縫い目。
擦れた表面。
使い慣れた形。
それを外す。
片方ずつ。
指を抜き、
腰に押し込む。
露出した指先に、
降下機の内側の空気が触れる。
まだ、
外ではない。
それでも少し冷たく、
妙に人の肌に近い。
扉が横へ滑った。
外の光が差し込む。
まぶしいほどではない。
目を刺すほどでもない。
ただ、
光の量が多かった。
草地でも砂地でもない場所から、
緑の気配が一度に立ち上がる。
風が入る。
人間は反射的に息を止める。
その一拍のあと、
肺の奥が、
自分の意思より先に動いた。
吸う。
吸ってしまう。
空気が流れ込む。
冷えすぎず、
重すぎず、
妙な引っかかりもない。
喉を通り、
胸の内側へ落ちる。
数字で確かめる前に、
体が先に受け入れた。
人間はもう一度吸う。
肩が上がる。
肺が満ちる。
苦しさは出ない。
胸の奥が広がり、
みぞおちの固さが少し遅れてほどける。
吐く。
吐いた息は、
降下機の床ではなく、
この土地の上に落ちた。
それだけで、
帰れない感じが少し増した。
人間は一歩前へ出る。
靴底が土に触れる。
沈み込みは浅い。
表面は柔らかく、
すぐ下にかたさがある。
歩ける。
走ることも、
たぶんできる。
だが、
走りたくなる土地ではない。
膝をわずかに曲げ、
着地の圧を逃がす。
二歩目。
三歩目。
振り返れば、
降下機の中にまだ仲間がいる。
装置箱を押さえる者。
記録板を胸に抱える者。
外気の流れを眺める者。
だれも笑わない。
けれど、
張りつめてもいない。
ここまでは、
うまくいっている顔だった。
人間は空を見上げる。
空は高い。
高いのに、
枝がその高さを削っている。
幹から伸びるもの、
幹へ戻るもの、
途中で絡み合うもの。
巨大な樹。
その言い方で足りるのかどうか、
初めて見る者にはわからない。
一本に見えるのに、
森のようでもある。
森に見えるのに、
どこか一つの意志で立っているようでもある。
幹肌には深い筋があり、
その間を薄い湿りが走る。
根は盛り上がり、
土を抱え込み、
土ごと何かを持ち上げている。
地面は平らではなかった。
呼吸するような起伏が続き、
歩くたび、
足の裏に別々の感触が返る。
人間はしゃがむ。
膝を土へ近づけ、
片手を下ろす。
指先が表面をなぞる。
粒は細かい。
乾いている部分と、
水気を抱えている部分が混じっている。
爪のあいだに入り、
皮膚へ張りつく。
手を持ち上げると、
土はすぐ落ちた。
残るのは匂いだけだ。
遠くで、
葉が擦れる音がした。
風だと思った。
次にまた音がして、
今度は風ではないとわかる。
規則がある。
止まり方に、
こちらを見ている間がある。
人間は顔を上げる。
枝の列。
葉の重なり。
そのあいだの影。
最初は見つからない。
見つからないまま、
見られている感じだけが先に来る。
目を細める。
影の一つが、
わずかに形を変える。
羽。
鳥だ。
そう思った瞬間、
別の場所でもう一つ影が動く。
さらにその奥。
さらに上。
さらに横。
いたるところに、
鳥に似た輪郭が止まっている。
人間は立ち上がる。
背中を伸ばし、
首の角度を少し変える。
どれも小さい。
どれも樹から離れない。
どれも鳴かない。
風に流される羽のゆらぎはあるのに、
飛び立つ気配はない。
こちらが出てきたことを、
とっくに知っていたような静けさだった。
記録係が降りてくる。
端末を胸の前で起こし、
外気の数値を確かめる。
その眼も、
途中で枝の上へ移る。
鳥か。
短くそう言って、
それ以上の感想はつけない。
人間は返事をしない。
一羽が、
首をわずかに傾ける。
動きは小さい。
にもかかわらず、
目が合ったような感じだけが強い。
人間は手を下げたまま、
その影を見つめる。
鳥なら、
すぐ飛ぶ距離だ。
鳥なら、
群れのどれかが鳴く距離だ。
鳥なら、
こちらが立っているだけで、
もっと気配を乱す。
だが、
乱れない。
枝の上の輪郭は、
こちらが呼吸を重ねるのと同じ回数だけ、
静かに留まり続ける。
降下機から荷箱が降ろされる。
角が土に触れ、
鈍い音が広がる。
その音で、
二羽が羽を少し広げた。
それだけだ。
逃げない。
人間は片手を胸へ上げ、
端末の記録を起動する。
映像。
外気。
視線の向き。
微振動。
記録は始まる。
だが、
その人間はしばらく入力しない。
先に見ていたかった。
最初の景色は、
数字にすると薄くなる。
空気が吸える。
地面が歩ける。
巨大な樹が立つ。
鳥に似たものが、
逃げずにこちらを見る。
それだけで、
最初の十分には十分すぎた。
装備担当が横を通る。
肩で箱を押し、
根元に近い平らな場所を探している。
靴が盛り上がった根に乗り、
すぐ離れる。
根は乾いて見えるのに、
近くでは湿りの気配を持っている。
人間は幹へ近づく。
手を伸ばせば届く距離まで行き、
そこで止まる。
樹肌は粗い。
裂け目の縁に、
緑の粉のようなものが沈んでいる。
触るか迷い、
結局、
指先だけで軽く押す。
硬い。
だが、
石ほどではない。
押した場所の奥に、
わずかな温度差があった。
表面と内側で、
別の時間が流れているみたいだった。
人間は耳を近づける。
何も聞こえない。
だが、
何もないとも言い切れない。
耳を離した直後、
背後で土が鳴った。
仲間が機材を置いた音だ。
振り返る。
記録係が空へ向けて、
短い撮影を行っている。
枝の上の輪郭が、
記録面にいくつも入る。
ただの鳥類反応。
たぶん、
そう分類される。
その言葉の乾き方が、
まだこの土地に合っていない気がした。
人間はまた、
あの一羽を探す。
同じ場所にいる。
低い枝。
幹からやや離れたところ。
葉の影に半分かかる位置。
羽には緑があり、
その奥に黄緑が沈み、
羽先にだけ紫のかげりが差していた。
体格は、
地球の大きめの鳥に近い。
だが、
止まり方が違う。
重さを預ける感じが少ない。
いつでも飛べるように見えるのに、
今は飛ぶ必要がないと決めている形だった。
人間は半歩だけ近づく。
一羽は逃げない。
目を逸らさない。
それどころか、
人間の肩の動き、
足の置き方、
指の向きまで見ているような静けさを保つ。
気のせいだと片づけるには、
視線の圧が長い。
人間はゆっくり、
空いた手を胸の高さまで上げる。
威嚇の意図のない、
ただの開いた掌。
枝の上の一羽は、
羽先をほんのわずか下げた。
それが応答かどうか、
まだ決められない。
風が通る。
葉が揺れる。
揺れの中でも、
一羽だけ輪郭が崩れない。
呼吸のたび、
人間の胸が動く。
生身で来ていることが、
今さらながら体にのしかかる。
装甲も隔離もない。
もしこの空気が遅れて体を壊すなら、
その結果は後から来る。
もしこの土地の微粒が皮膚を傷めるなら、
それも後から出る。
それでも、
今は吸える。
今は立てる。
今は見られている。
人間は唇を湿らせる。
乾いていたのは喉ではなく、
判断のほうだった。
降下の前に見た地図、
資源分布、
大気の層、
根の反応予測。
どれにも、
今この目の圧は載っていない。
仲間の声が後方で交わる。
設置位置。
回収時間。
初期ルート。
周辺半径。
短く、
実務だけの言葉。
人間はそのどれにも加わらず、
幹と枝のあいだを見ている。
一羽がいる。
そこにいることに、
無駄がない。
人間は一歩下がる。
一羽も動かない。
さらに一歩下がる。
それでも動かない。
ならば、と、
今度は横へ回る。
見える角度が変わる。
枝の線と葉の線が重なり、
一羽の輪郭が少し崩れる。
その瞬間、
一羽もまた、
わずかに首を動かした。
見失わせないようにする程度の角度。
人間は立ち止まる。
笑いそうになるのを、
喉の奥で押しとどめる。
変だ。
変だが、
嫌ではない。
記録係が近づき、
同じ方向を見る。
何かいるのかと問う顔。
人間は枝を指す。
鳥。
そう答える。
記録係は数秒だけ見て、
うなずく。
それ以上は見ない。
端末に触れ、
別の数値へ目を移す。
人間は再び、
一羽だけを見る。
一羽は見ている。
両者のあいだを、
風が何度か通り抜ける。
そのたび、
人間の髪が揺れ、
一羽の羽先が光を返す。
緑。
黄緑。
紫。
色ではなく、
信号みたいに見えた。
見ているうちに、
ほかの影も少しずつ位置を変える。
高い枝から低い枝へ。
幹に近い側から外側へ。
人間の周囲に、
ゆるい円ができる。
包囲ではない。
観察だ。
その静けさに、
仲間の一人がようやく気づく。
多いな。
短い感想。
人間は答えない。
多い。
だが、
騒がしくない。
これほど集まっていて、
これほど鳴かないものを、
あまり見たことがなかった。
大型機が近くを通れば、
ふつうは飛ぶ。
刃物が日差しを返せば、
ふつうは散る。
なのに、
散らない。
逃げる理由がまだないのか、
逃げる必要がないのか。
人間は幹から手を離し、
土を払う。
掌のしわに入り込んだ粒が、
簡単には落ちない。
その汚れ方が、
やけに現実的だった。
ここは映像の向こうではない。
訓練施設でもない。
保護膜の向こう側でもない。
土は爪に入り、
空気は肺に入り、
視線は皮膚の上を歩く。
人間は背筋を伸ばし、
遠くまで目を送る。
巨大な樹の列が、
さらに向こうにも続いている。
一本。
二本。
数えきれない。
そのどれにも、
同じような影がいるのだろうか。
この土地では、
自分たちのほうが後から来た異物なのだと、
遅れて骨へ伝わる。
記録係が初期データの固定を終え、
合図を寄こす。
人間は片手を上げて応じる。
それで作業は始まってしまう。
まだ何もしていないのに、
始まった感じだけはもう覆せない。
人間は最後に、
枝の上の一羽を見た。
一羽は変わらずそこにいる。
羽を広げない。
鳴かない。
近づかない。
ただ、
見ている。
その目の奥に、
こちらを拒む硬さはない。
受け入れる柔らかさもない。
判断の前にある静けさだけがある。
人間はゆっくり息を吸う。
この星の空気が、
体の内側を満たす。
最初の呼吸は、
もう終わっている。
二度目も三度目も、
もう区別がつかない。
それでも、
最初に吸ったときの感触だけは残っていた。
胸の奥が、
外の大気とつながったような、
細い通路の感覚。
人間は踵を返す。
作業に戻るための一歩を踏み出す。
その直前、
背後で、
葉の擦れる音がした。
振り向く。
一羽が、
枝から一つ低い位置へ移っている。
音はそれだけだった。
飛翔とも言えない、
落下とも言えない、
短い移動。
距離は少し縮んだ。
人間は立ち止まる。
一羽もまた、
止まる。
視線が重なる。
言葉はない。
合図もない。
けれど、
その沈黙は、
ただの無関心ではなかった。
人間は手袋を腰から抜き、
見つめたあと、
また戻す。
今はまだ、
素手でいたかった。
そのまま、
掌を開く。
開いたまま、
何もしない。
一羽は羽先をわずかに下げる。
それが偶然でも、
人間は覚える。
あとで思い出す形として、
確かに覚える。
降下機の鉄鋼が遠くで鳴る。
土を踏む音が近づく。
作業の時間が、
本格的に流れ始める。
人間はようやく、
枝から目を外した。
歩き出す。
四歩。
五歩。
六歩。
それでも、
背中に視線が残る。
嫌な残り方ではない。
むしろ、
誰かがちゃんと見ていたという、
妙な確かさの残り方だった。
人間は荷箱のそばまで戻り、
記録板を受け取る。
装置の角が手のひらに当たる。
硬い。
冷たい。
人間の道具の感触だ。
それを持ったまま、
もう一度だけ顔を上げる。
一羽はまだいる。
低い枝。
葉の影。
緑と黄緑と紫のかげり。
樹の一部みたいに静かで、
樹ではない確かな輪郭。
人間は名前を知らない。
分類も知らない。
ただ、
最初に出会った視線として、
その姿を胸のどこかへ置く。
空気はまだ吸える。
苦しさはない。
胸の上下は落ち着きつつある。
この星は、
少なくとも今のところ、
人間を拒んでいない。
けれど、
迎えてもいない。
その中間に立つ感じが、
降下の成功よりもずっと鮮明だった。
人間は記録板の縁を握り、
作業域へ歩く。
枝の上の一羽は、
見送らない。
ただ、
見ている。
その静かな圧の中で、
最初の日の最初の時間が、
土の上に沈んでいった。