静かな部屋に、彼女の足音が響かなくなってどれくらい経つだろう。玄関のドアが閉まる乾いた音が耳に残り、まるで私の心に小さなひびを入れたかのようだった。彼女は出て行った。荷物をまとめて、静かに、でも決定的に。私はそれを引き留める言葉も気力も見つけられなかった。机の上には、締め切りがぎりぎりの原稿が山積みになっている。小説とノートに埋もれたこの空間で、私は何日も、いや何週間も没頭していた。彼女がそばにいてくれるのが当たり前だと思っていたから、気づかなかったのだ。彼女の溜息が重くなり、視線が冷たくなっていたことを。私はただ、次の締め切りに追われ、ペンを握り続けていた。それが彼女の我慢をすり減らし、愛を枯らしてしまったなんて、今になってようやくわかる。
玄関のドアが開く音がして、私は反射的に立ちあがった。
彼女がリビングのドアを開けて立っていた。
「おかえり…!」
「物返しに来ただけ、帰ってきたわけじゃない」
彼女はそう言って、両手にぶらさげていた紙袋を床にどさりと置いた。机の上の原稿が、そっと風に揺れるかすかな音だけが響く。
その中には、私があげたマフラーや一緒に選んだカップが詰まっているのが見えた。彼女の指先が少し震えているのが見えた。
私はテーブルの上の原稿を慌ててどかし、座る場所を空ける。彼女はコートを脱ぎながら近づいてきた。
「コーヒー淹れるよ」
私はキッチンに向かいかけるが、彼女に腕を掴まれた。
「いい」
「っ…」
「もう終わりにしましょう、私たち」
「……なんで?」
「ずっと考えてたの、私このままでいいのかなって」
彼女の目はまっすぐに私を見ていた。私はその言葉が信じられず、何か言わなきゃと思うのに、喉に何かがつっかえて声が出せなかった。
「私ね、ずっと不安だった。あなたの才能はすごいけど、でも今はそれを評価してくれる人がいないから。だからあなたのそばにいなきゃと思った。でも」
彼女の目に涙が溜まっていくのがわかる。
「あなたは私を愛してくれてるわけじゃないってわかった」
「……っ!」
そんなわけない、と言おうとしたが言葉にならなかった。彼女は私の腕を強く握りながら言う。
「どれだけ一緒にいても、どれだけあなたのことを想っても、あなたはいつも仕事や書くことの方が大事で。ずっと寂しかった」
「……ごめん、ごめん!そんなつもりじゃなくて……っ!」
「じゃあどういうつもりだったの?」
「……」
彼女はまっすぐな目で私を見ていた。
「付き合うって言ってくれたのは、私が好きでいてくれてるんじゃない。あなたはただ、書くことが好きだっただけ」
彼女の目からぽろりと涙が零れた。私は自分の愚かさを呪いながら、謝ることしかできない。
「ごめん……っ」
彼女は涙を拭いながら首を横に振った。
「謝らないで。きっとずっとそうだったのよ、私が気づかなかっただけ」
あなたを責めたいわけじゃないの、と彼女は言った。そして私の腕から手を離した。
「でも、もう一緒にはいられない」
「嫌だ、別れたくない」
私は思わず彼女の腕を掴んだ。彼女は私の顔を見ずに言う。
「……お願いだから!これ以上っ惨めにしないでよ…」
「っ……」
もう彼女は私を見ていないのだ。そして私の声も届かない。
「今までありがとう」
彼女はそう言うと私の腕を振り払い、玄関へ歩いて行った。
私はその背中を見ていることしかできなかった。その足音が遠ざかり、再び乾いたドアの音が部屋に響いた。
彼女がいなくなり一人になった部屋で、私はぼんやりと天井を見つめていた。彼女と過ごした日々が頭の中を駆け抜けていく。
一緒にテレビを観て笑ったり、彼女がドラマのオチを当てて得意げに笑った夜が、今さら愛おしくなる。他愛のない話をしたり、時には喧嘩をしたり。私の下手な原稿を目を輝かせて読んでくれた。私を必要としてくれることが嬉しかったし、私も彼女が必要だった。
だけど私は彼女のために何もできなかったのだ。彼女が何を望んでいるかもわからずに、自分のことばかり考えていた。
「ごめん……」
もう届くことはないとわかっているのに、私はそう呟くことしかできなかった。