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レモン
ふわねこカラメル
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「……もう、嫌だ」
心の中で何度も繰り返した言葉が、今日だけは違っていた。ただ泣いて流すだけじゃ、終わらせない。私を踏みつけた連中に、ちゃんと後悔させてやる。この屈辱を、バネに変えて——。
個室のドアをそっと開け、洗面台の鏡の前に立った。目元は真っ赤で、マスカラがぐちゃぐちゃににじんでいる。冷たい水で顔を洗おうと手を伸ばした瞬間、背後から静かな足音が聞こえた。
「……佐々森さん?」
柔らかい、低めの声。振り返ると、そこに立っていたのはアルバイトの真言寺くんだった。彼はいつもより少し息が上がっているように見えた。片手にコンビニのビニール袋を提げ、制服のシャツの袖を軽くまくっている。黒髪が少し乱れていて、整った顔立ちが余計に幼く見える。二十歳そこそこの年下なのに、なぜか私より落ち着いて見える瞬間がある。
「あ……真言寺くん」
声が掠れてしまった。慌てて目を逸らそうとしたけど、彼は一歩近づいてきて、私の顔をまっすぐ覗き込んだ。
「泣いてる……?」
その言葉に、堪えていたものがまた溢れそうになる。
私は唇を噛んでうつむいた。言葉が出てこない。真言寺くんは少し迷うような間を置いてから、ビニール袋の中から小さな飴の包みを取り出した。淡いピンク色のラッピング。イチゴのイラストが可愛らしく描かれている。
「これ……イチゴ味のキャンディーです。甘いもの食べると、少しだけ気持ちが落ち着くって、僕の姉が言ってて」
彼は包みを丁寧に開け、飴を1つ私の手のひらにそっと乗せた。指先が触れた瞬間、温かくて、少しだけ震えているような気がした。
「……ありがとう。でも、私、今そんな気分じゃ」
「無理に食べなくていいですよ。ただ、持っててほしいんです。僕の気持ちです」
そう言って、彼はもう1つ自分の口に放り込んだ。少し照れたような、子供っぽい笑顔が浮かぶ。
「ほら、僕も一緒に食べますから。一人じゃ寂しいでしょ?」
その瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。会社で誰かにこんな風に優しくされたことなんて、最近なかった。みんなは笑うか、避けるか、陰で悪口を言うか……それだけだったのに。
真言寺くんは私の隣に並び、洗面台の端に軽く腰を預けた。視線を落としたまま、静かに話し始める。
「今日のミスのこと、聞きました。課長、かなりキツく当たってましたよね……。佐々森さん、いつも頑張ってるのに。僕、横で見てて、胸が苦しくなっちゃって」
彼の声は穏やかで、まるで風のように耳に滑り込んでくる。年下なのに、こんなに落ち着いた話し方をする子だったっけ?
「……僕、佐々森さんのこと、結構前から気になってたんです。声は小さいけど、いつも一生懸命で。でも誰にも頼らずに抱え込んでるみたいで……」
指先が、そっと私の頰に伸びてきた。涙の跡を、親指の腹で優しく拭う。触れ方は本当に丁寧で、まるで壊れやすいものを扱うように。
「泣かないでください。佐々森さんが泣いてる顔、僕……嫌なんです」
その言葉と、温かい指先の感触に、堰を切ったように涙が溢れた。でも今度は、悲しいだけの涙じゃなかった。少しだけ、救われたような、甘い疼きが混じっていた。
真言寺くんは慌てず、ポケットから綺麗なハンカチを取り出して、私の目元に当ててくれた。イチゴの甘い香りと、彼の柔らかい匂いが、ほんのり混ざって鼻をくすぐる。
「大丈夫ですよ。僕が、そばにいますから」
その一言が、今日一番優しい音だった。