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第3話
『波のかたち』
京極海(きょうごく うみ)が最初に違和感を覚えたのは、入学式だった。
講堂。
ざわめき。
拍手。
周囲が前を向いている中で、ひとりだけ、視線の動きが違うやつがいた。
小鳥遊蒼空。
壇上ではなく、人の口元を追っている。
話し手が変わるたび、微妙に首の角度が変わる。
音を“聞く”動きじゃない。
“読む”動きだ。
海は、気づいた。
理由は単純だ。
家に、そういう癖を持つ人がいたから。
母の同僚に、難聴の看護師がいる。
会話のとき、必ず正面に立つ。
早口の人を避ける。
聞こえないふりはしないが、説明は求めない。
蒼空の動きは、それと似ていた。
⸻
介護実習でペアになったのは、偶然だ。
でも、観察はしていた。
蒼空は笑う。
周囲に合わせる。
でも、時々ほんの一瞬、反応が遅れる。
ロッカーの音に肩が跳ねたとき。
驚いたのは音の大きさじゃない。
“何が起きたか分からない一瞬”に対する反応だ。
あれは、知っている顔だった。
海は、確信した。
聞こえにくい。
でも、蒼空はそれを言わない。
言わないで、普通の顔をする。
強い。
でも、不器用だ。
⸻
車椅子実習のとき。
蒼空が利用者役になった瞬間、海は立ち位置を決めた。
少し斜め前。
口元が見える距離。
短く、区切る。
「押す」
「段差」
「上げる」
意識的だった。
同情ではない。
当たり前に、そうした。
蒼空が驚いた顔をしたのを、海は見逃さなかった。
気づいてる。
でも、言わない。
それが蒼空だ。
⸻
ロッカーの金属音。
蒼空の肩が跳ねる。
指が制服を掴む。
そのとき海は、ほんの一瞬、嬉しかった。
頼られた、からじゃない。
蒼空が“無意識”で掴んだことが。
計算じゃない。
選択じゃない。
反射。
体が、自分を選んだ。
それが、たまらなかった。
海は静かに視界へ入る。
「ただのロッカー」
ゆっくり言う。
蒼空の呼吸が整っていく。
目が、自分を捉える。
その瞬間。
確信する。
——守る、じゃない。
隣に立つ。
でも。
それだけで済むのかは、分からない。
⸻
帰り道。
「なんで俺の正面に立つの」
蒼空が聞いた。
海は少し考えた。
本当の理由は言わない。
“聞こえにくいから”なんて、本人より先に言わない。
「見えないと困るだろ」
それだけ。
蒼空の目が、ほんの少し揺れる。
ああ。
この顔。
上目遣いで、無防備で。
小さいものを見たときと、同じ衝動が走る。
家で飼っている猫が、見上げるときの顔。
守りたい、というより。
抱え込みたい。
自分の腕の中に収めたい。
その感情に、海は気づいている。
でも、まだ名前はつけない。
つけたら、戻れない。
蒼空は強くなりたくてここにいる。
ならば海は。
蒼空が強くなれるまで、隣にいる。
ただ、それだけ。
……のはずだった。