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予紬の部屋は、研究室のすぐ隣にある小さな私室だった。
最低限の家具しか置かれていない。
本棚には専門書が隙間なく並び、机には開きっぱなしの論文と書きかけのメモ。生活感より研究室の延長みたいな空間だった。
「……本当に研究しかしてないんですね」
部屋へ入ったしゆらが呆れたように辺りを見回す。
「失礼な。最低限の生活はしてる」
「最低限すぎます」
「研究者なんて大体こんなもんだ」
そう言いながら、俺は散らかっていた書類を適当に端へ寄せる。
ベッドは一つしかない。
しゆらもそれに気づいたらしく、途端に顔を赤くした。
「……あ」
「今さら気づいたのか」
「だ、だって……予紬さん普通に言うから……」
「嫌なら研究室のソファ使うか?」
そう聞くと、しゆらはぶんぶんと首を横に振った。
「そ、そういうわけじゃないです!」
「じゃあどういうわけだ」
「うぅ……いじめてます?」
「少しだけ」
「やっぱり……」
涙目になりながら睨んでくる。
その反応が面白くて、つい口元が緩んだ。
しゆらは不満そうにしながらも、俺の袖を掴んだまま離れない。
「ほら」
俺はベッドへ腰掛け、隣を軽く叩く。
しゆらは数秒迷ったあと、恐る恐る隣へ座った。
距離は近いのに、妙にぎこちない。
互いに何を話せばいいのかわからなくなっている。
静寂が落ちる。
窓の外では風の音だけが聞こえていた。
「……予紬さん」
「ん?」
「その、さっき……」
「さっき?」
しゆらは視線を泳がせながら、小さな声で呟く。
「抱きしめてくれたの……嬉しかったです」
思わず息が止まりそうになる。
本人は言ったあとで恥ずかしくなったのか、耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
こっちはそれ以上に困る。
「……そうか」
なんとかそれだけ返す。
だが、しゆらは納得していない顔だった。
「反応薄いです」
「お前な……」
「もっとこう、ないんですか」
「何を期待してる」
「わかりませんけど……」
むしろ無自覚なのが質が悪い。
俺は額を押さえながら深く息を吐く。
すると、しゆらがそっとこちらを見上げてきた。
不安そうで、でも少し期待しているような目。
その視線に耐えきれなくなって、俺は小さく呟く。
「……嬉しかったのは俺も同じだ」
「……っ」
しゆらの肩がぴくりと揺れる。
見る見るうちに顔が赤くなっていった。
「予紬さん、ずるいです……」
「何がだ」
「そういうの、急に言うから……」
恥ずかしそうに目を逸らしながらも、しゆらは少し嬉しそうに笑っていた。
その表情を見ていると、胸の奥が妙に温かくなる。
俺は軽く手を伸ばし、しゆらの髪へ触れた。
さらりとした感触が指を抜けていく。
しゆらは驚いたように目を瞬いたあと、安心したようにそっと目を細めた。
猫みたいだな、とふと思う。
警戒していたくせに、一度懐けば無防備になる。
「……眠れそうか?」
「たぶん」
「たぶんか」
「でも、予紬さんが隣にいるなら大丈夫です」
そう言って、しゆらは俺の肩へこてんと頭を預けてきた。
柔らかな重みが伝わる。
こんなにも誰かを近くに感じるのは、いつぶりだろう。
俺はしばらく黙ったまま、その温もりを受け止めていた。
やがて、しゆらの呼吸が少しずつ穏やかになっていく。
眠気が来たらしい。
「……しゆら」
呼んでも返事はない。
代わりに、小さく寝息が聞こえ始めていた。
俺は苦笑しながら、眠ったしゆらをそっと横たえる。
離れようとした瞬間。
きゅっ、と袖を掴まれた。
「……どこにも、行かないで……」
寝言みたいな声だった。
その弱々しい声に、胸が妙に締めつけられる。
俺は少しだけ迷ったあと、小さく息を吐く。
そして観念したようにベッドへ腰を下ろし、しゆらの隣へ横になった。
すると、しゆらは安心したように擦り寄ってくる。
無意識なのが余計に困る。
「……ほんと、調子狂うな」
小さく漏らした呟きは、眠ったしゆらには届かなかった。
窓の外では風が鳴っている。
研究室に泊まり込む夜なんて珍しくもない。いつもなら論文を読み漁るか、薬品の配合を見直している時間だ。
だが今は、隣で眠る少女の寝息ばかり気になってしまう。
しゆらは俺の腕に擦り寄るように身を寄せ、小さく息をしていた。
無防備すぎる。
こんなふうに誰かへ身を委ねられた経験なんて、ほとんどなかった。
「……」
そっと前髪へ触れる。
熱はない。
だが頬はほんのり赤く、触れた指先よりも温かかった。
その時。
「……ん……」
しゆらが小さく身じろぎをする。
反射的に手を引こうとした瞬間、ぎゅっと服を掴まれた。
「……いかないで……」
寝言だった。
弱々しく縋るみたいな声。
胸の奥が妙にざわつく。
「……行かねぇよ」
思わずそう返していた。
聞こえているはずもないのに。
しゆらは安心したように力を抜き、再び静かな寝息を立て始める。
その表情を見ていると、不意に昔の記憶が頭を過った。
冷たい病室。
薬品の匂い。
白い天井。
“人に期待するな”
そう教え込まれてきた。
誰かに執着すれば、いつか失う。
だから最初から距離を置いていた方がいい。
そのはずだったのに。
「……厄介だな」
しゆらといると、どうしても調子が狂う。
研究中にぼんやり別のことを考えるようになった。
食事を摂ったか気にされる。
眠れているか確認される。
そんなもの、今まで必要だと思ったこともなかった。
なのに今は。
その声が聞こえないだけで、妙に静かすぎると感じてしまう。
「……予紬さん……」
不意に名前を呼ばれ、肩が揺れる。
だがしゆらは目を閉じたままだった。
寝言らしい。
「……ちゃんと、寝てくださいね……」
「……」
こんな時までそれか。
思わず苦笑が漏れる。
俺は小さく息を吐き、しゆらの頭をそっと撫でた。
細く柔らかな髪が指を抜けていく。
その感触を確かめるみたいに何度か撫でているうちに、しゆらが気持ちよさそうに小さく笑った。
……本当に、無防備だ。
こんな顔をされたら。
離れられなくなる。
俺は視線を逸らすように天井を見る。
研究だけして生きていくつもりだった。
誰とも深く関わらず、必要最低限だけでいいと思っていた。
なのに。
腕の中の小さな温もり一つで、その全部が崩されていく。
「……参ったな」
誰にも聞こえない声が、静かな部屋へ溶けていった。
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