「吉田。チェロの用意だけでいい。譜面台は、いらん」
廊下で、前を行く執事の吉田へ岩崎は言った。そして、後ろから着いてきている男爵へ
「兄上、話があるのでしょ?」
と、むすりとした顔を向ける。
男爵は、近くのドアを開け、そちらの部屋へ入るよう岩崎を促した。
「全く、とことん、茶番を打つ!」
壁いっぱいに、書籍がぎっしり並ぶ、書斎のような部屋で、岩崎の声が響き渡るが、男爵も負けていなかった。
「バカ者!京介!お前は、何を考えている!」
兄の怒りに、岩崎は、別段驚く訳でもなく、淡々と返事をした。
「辞退のことですか」
落ち着き払う弟へ、男爵は大きく頷く。
「……楽団の内部は、かなり混乱している様です。兄上含め、有志からの援助金も、いい加減に使われており、楽団員への給与も未払いが続いているようです。当然、退団者も出ています。だから、私へ欠員補充として声がかかったのでしょうが……。その様な所では、落ち着いて演奏など出来ないと、私は判断しました」
そこまで言って、岩崎は、男爵へ頭を下げた。
「……だからといって……」
告げられた事に、いささか堪えたのか、男爵は、やや口ごもった。
しかし。
「では、生活は、どうする?!楽団の不祥事は、私達、支援者が意見すれば、持ち直すだろう?辞退すれば、お前は、楽団員ではない。音楽学校の非常勤講師で、どうやって、家族を養う!お前は、男爵家を勘当されていると、言い張っている。それならば、なおのこと、自分で稼ぐすべを見つけなければならんのじゃないか?!」
男爵も、負けじと捲し立てた。
「結局、見合いですか」
岩崎の、投げやりな返しに、男爵の顔つきは、更に厳しくなる。
「京介!今度の見合いは、決まりだ!お前、いったい、いくつだ!いい加減に身を固めろ!そして、再度、楽団へ入団を願い出ろ!楽団内の問題は、私達が、なんとかまとめる!」
「だから、そんな、よけいな事は、止めてください!」
「演奏の準備をしろ。そして、西条家へ挨拶に行くぞ」
だから、と、岩崎は、粘る。
「まあ、演奏は、吉田の判断で、行きがかり上のこと。別に、必要無いのだがな、月子さんへ言ってしまった以上、致し方ない。それに、見せておくのも悪くないだろう。音楽家、とは、それを支えるとは、どうゆう事か、月子さんなら、きっと、わかるはずだ。何しろ、西条家では、相手の顔色ばかり見て小さくなっていた……。察しは、いいはずだ……」
ちょっと、と、岩崎は、月子への口振りに不満を表した。
「ふん、私の言い方が、気に入らないか。それは、なぜだ?!京介!いい加減に、昔の事は忘れろ!そもそも、お前の独り合点で、あの彼女を呼び寄せた。なんとかなると、お前は甘く考えていたんだ。しかし、若いお前に何が出来た?!職にも付いていない、華族として、なんらか、投資でもしている訳でなく、欧州《ヨーロッパ》帰りの若き音楽家、それだけで、なにが出来た!結局、あの彼女を不幸にしてしまったじゃないか……。お前に、非があったんだ。ならば、苦労してきた、月子さんを、幸せにしてやれ。それも……彼女への供養になるんじゃないのか?」
男爵の言葉に、岩崎は、うつむいた。
それは、言い返せない自分に腹立たしさを感じてる様にも見えた。
そんな弟に、男爵は、行くぞと、声をかけ、
「見合いというものは、家通しの決め事だ。受けた以上、すでに決まっている。京介。お前は、あの月子さんを、放っておけるのか?」
男爵は部屋をドアを開けると、皆が待っているのだから、早く来いと声をかける。
「……まあ、月子さんは、堪え性はあるはずだ、その点は、相応しいと思うがね……」
先を行く男爵は、誰に語る訳でもなく独り言った。
岩崎は、黙りこくったまま、兄に続き、部屋を出る。
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