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休みが明けて、学校に行くと、あの掲示板には何も貼られていなかった。俺の噂も落ち着いてきて、平穏が戻る。
ただ一つ変わったことといえば、ちぎり君が格好をやめてしまった、ということだろうか。
「先輩、おはようございます」
「おはよう、あずゆみ君」
俺を見つけては、挨拶をしてくれる後輩は一人になってしまったけど、彼は、俺の元から去ることはないだろうなって安心感があった。ちょっぴり、矢っ張りちぎり君がいなくなったことは悲しくて、何でだろうな、最後にもう一回話したいなって思ったけど、彼は俺みたいな凡人に興味はないだろうと思う。彼の性癖には、俺は刺さらないらしい。
あずゆみ君も、「彼奴、やめたんですね」と、何処か他人事のようにいっていた。あまり、詮索したくないから、仲が良かったのとか、結局どういう関係だったのかは聞かなかった。聞かない方が、あずゆみ君にとっても良いだろうと。
「先輩は、もう大丈夫なんですか?」
「え、うん。まあ、順調だし」
「え……あ、いや。そこまで、聞いてはないんですが。そうです、か。良かったです」
と、何処か気まずそうにいうあずゆみ君。耳が赤くなっていて、こういう話題には弱いんだなというのが伝わってきた。可愛いところがあるじゃないか、なんて、俺は思わず笑みがこぼれてしまう。
まあ、今のは惚気みたいなもので、俺は、別教室で講義を受けるから、とあずゆみ君に言ってその場を去った。
今のところ、あずゆみ君には何も被害がいっていないようで安心する。
俺は、いつものように一人で講義を受けて、いつも通り同じ定食を頼んで、午後の授業を受けて、電車に乗って帰宅する。
『扉が開きます――』
聞き慣れたアナウンスを耳で拾いながら、俺はプラットホームに一歩踏み出す。下ばかり向いていたため、眩しさに目を眩ませながらも上を向けば、そこには見慣れた亜麻色の髪の青年が立っていた。
「つーむぎさん。来ちゃいました♡ 恋人の、お迎えですよ。もっと、喜んで下さい」
「ゆず君?」
「はい、貴方の恋人のゆずです」
にっこりと笑ってゆず君は後ろに組んでいた手を、俺の肩に回した。
「待ってたんです。ここで降りるって、覚えちゃいました」
「そんな、ストーカーみたいな」
「恋人のこと知りたいって思うの、普通じゃないですか。ダメです?」
と、上目遣いでいわれてしまい、俺はあまりの可愛さにうっと、心身共にダメージを喰らう。本当に、抜け目がないあざとさ。
けれど、ゆず君は俺にもう『お願い』何てしない。
あの夜、ゆず君に俺は体質のことを話した。『お願い』が呪いだって。俺がそう思い込んでいるだけかも知れないけれど『お願い』に身体が反応してしまう、『お願い』を聞く為だけの奴隷に成り下がってしまうということをゆず君に伝えた。ゆず君は真剣に聞いてくれて、これまで少し引っかかっていたことが、ようやく分かった、解消した、と俺の体質のことを受け入れてくれた。そして、これまで無理に『お願い』を聞いて貰っていたことを、後悔したみたいな顔で俺を見て、ごめんなさい、と素直に謝ってくれた。分かってくれ、なんては思っていなかった。でも、まさか、謝ってくるなんて思わなかったので、俺はいいよ、なんて許してしまった。この体質を知れば、悪用する人は出てくるだろに、ゆず君はもう二度と『お願い』なんてしない、といった。その代りに――
「紡さんからは、僕にして欲しいことってありますか」
「唐突だなあ……今のところ、ないかも」
「えー何でも言って下さいよ。恋人同士なんですから、遠慮いらないですって。あ、でも、デートとかしてみたいです。恋人のデート」
そういって、ゆず君は口元に人差し指を当ててうーん、と考える素振りを見せる。
俺の『お願い』……俺の声が聞きたいっていってくれた。やって欲しいこと、いって欲しいこと、頼ってくれていいんだよ、とゆず君は言ってくれた。少しずつ、『お願い』の呪いから解放されつつあるな、という実感はあって、俺自身も、封じ込めてきた自分のエゴを出せるようになってきた。俺は、頼られたかったし、誰かに頼りたかったんだと。そう、気づかせてくれた。
「デート……か、してみたいかも」
「でしょ! 僕もしてみたいです。今度は、本物の恋人同士でのデートですよ!」
「確かにね。いきたい所とかある?」
「一杯ありますよ。でも、一緒に考えたいです」
と、ゆず君は俺の方を見た。
キラキラと輝く宵色の瞳。それがいっそう綺麗で、俺の夕焼けの瞳を映して、グラデーションを作る。ゆず君は俺を見てくれているんだって、安心する。
恋人同士っていう実感はまだわかないけど、これからは演技でも役でもない、本物の恋人なんだって、それは特別だなって思っている。特別な関係。
ゆず君は、この間の事をきっかけに、レオ君への当てつけのように俳優業に精を出して、新しい祈夜柚の形、なんて取り上げられるほどにその才能を発揮した。最近実力を伸してきたレオ君を完膚なきまでにたたき落として、この間の映画は、どっちが主役か分からないくらいだったとか。まだ、見に行っていないから噂だけど。
そんな感じで、ゆず君は芸能界復帰。でも、BL小説はまだ書続けているのだとか。時々、「紡さんSMプレイしてみたいです」なんてとんでもないこと言われるけど、まあ、日常茶飯だし、と受け流している。
「あ、あのね、ゆず君」
「はい、何ですか! 紡さん」
期待の眼差し、俺が、頼み事をするって勘付いたのだろう。ゆず君は目を輝かせた。
そんなたいしたことじゃないんだけどなあ……何て思いながら、これは俺の思いで、今一番お願いしたいことだった。
「今日、ゆず君の家に寄っていって良い?」
「……っ、もっちろんです。まず一緒に片付けから始めましょ!」
「え、また散らかってるの?」
「紡さんがくるってわかってるので、散らかしたままです」
なんて、胸をはっていうゆず君。胸をはっていうことじゃないんだけどな……と、呆れながらも、いつものゆず君が戻ってきたと、俺は嬉しくなった。
『お願い』から始まった関係が、こんなに甘くなるなんて、誰が想像しただろうか。
ゆず君は俺の手を引いて走り出す。無邪気に笑ったゆず君の顔は、俺しか知らないし、見え無いものだろう。
「紡さん、行きましょ」
「うん、ゆず君。でも、引っ張らないでよ」
「恋人が家にくるってこんなに嬉しいものなんですね」
「大げさだよ」
あははっ、と笑いながら俺の腕をグイグイ引っ張っていく一つ年下の恋人の背中を見ながら、俺はくすりと笑いが漏れた。
可愛くてあざとい、男らしい俺の恋人。
「ゆず君」
「紡さん?」
「大好きだよ。ゆず君」
「知ってます。僕の方が好きなんで」
ゆず君の笑顔は世界一可愛いって、恋人の俺がそう声を大にしていいたい。
俺の恋人は世界一可愛いって。