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第4話:オンとオフの境界線
「……あー。……足が、重い。……重力が、5倍くらいある」
事務所の大型練習スタジオ。
鏡張りの広い部屋の隅で、ユズルは床に転がっていた。
今日はF/ACEのメンバーも見守る中、ボイストレーナーによる実力チェックが行われる日だ。
「おい、いつまで寝てんだ! 早く立てよ!」
桜利の声が響くが、ユズルは薄目を開けて
「……坂口さん。……声、デカい。……エコーかかってる」と力なく返すだけ。
「大丈夫かな、ユズルくん……。あんなにフラフラで、歌えるの?」
心配そうに覗き込む多聞。
その横で、ウタゲは「大丈夫です多聞くん! うちの弟、寝ながらでもご飯食べる特技があるので!」とズレた太鼓判を押している。
やがて、トレーナーがピアノの前に座った。
「じゃあユズルくん、まずは自由曲で。リラックスしていいわよ」
「……はーい。……じゃあ、適当に」
ユズルは、のろのろと立ち上がった。
重心を預けるようにマイクスタンドの前に立つ。
猫背で、今にも膝から崩れ落ちそうな、いつもの「無気力な弟」の姿。
だが。
イントロのピアノが鳴り響いた瞬間。
ユズルの長い睫毛が、スッと跳ね上がった。
「…………っ!?」
見守っていたメンバーの背筋に、冷たいものが走る。
澱んでいた瞳に、濁りのない、冷徹なまでの 「表現者」の光が宿った。
「『……沈む、太陽。……焼き付いた、残像……』」
部屋の空気が一変した。
低く、艶っぽく、それでいて鼓膜を震わせる圧倒的な声量。
ゆっくりとした口調はそのままに、一言一言に込められた感情の重みが、聴く者の心臓をダイレクトに握りつぶす。
それは、昼間の彼からは想像もつかない、「孤高の天才」の姿だった。
「……これ、マジかよ……」
桜利が言葉を失う。
多聞は、瞬きするのも忘れて彼を見つめていた。
(……あ。……この感覚。……僕がネットで何度も聴いた、あの『シキ』の声……!)
歌い終わると同時に、ユズルはふっと糸が切れたように肩を落とした。
「……ふぅ。……終わった。……糖分、補給したい。……チョコ、ちょうだい」
一瞬でいつもの「無気力モード」に逆戻り。
スタジオには、嵐が過ぎ去った後のような静寂と、メンバーたちの激しい動揺だけが残された。
「ユズルくん……今の、君が作った曲?」
多聞が震える声で尋ねる。
「……ん。……まあ、適当に。……あ、ウタゲ姉さん。……帰りに、コンビニ寄って。……新作のアイス、食べたい」
「あんた……! あんた最高!! 多聞くんが感動してる!!」
号泣するウタゲを横目に、ユズルは「……暑い。……脱いでいい?」と、レッスン着の襟元を緩める。
メンバーたちは確信した。
この男は、単なる「ウタゲの弟」ではない。
F/ACEの地位を根底から揺るがしかねない、とんでもない劇薬だということを。
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