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「なんか……」
ぽつりと若菜が呟くように言い、意識がわずかに外れる。
「緊張するから……湊。湊が緊張するの、やめてほしい」
それは若菜がむくれたり、恥ずかしがったりする時の声だった。
一瞬遅れて顔をあげた。
思わず若菜を見ると、床を見つめたままの若菜の横顔は、すこし赤らんでいる。
……なんだよそれ、そんなこと言ったって。
「そう言われても……仕方ねーだろ」
こっちだって、緊張したくてしてるんじゃない。
しかも緊張しているのがばれてかなり恥ずかしいのに、それでもやっぱり意識してしまうんだから、もう仕方がないとしか言いようがないだろ。
若菜につられて自分も顔が熱くなるのを感じながら、若菜と同じようにむくれたそぶりをして目を逸らす。
すると、若菜が目線を部屋の端から端に動かしたのがわかった。
なんだろう、と思っていると、若菜が続ける。
「しかし……久しぶりだな、湊の部屋に入るの。前に入ったの、たぶん小学生の時な気がする」
「あぁ……そうかもな。トランプとかした記憶がある」
「あ、そうだね。そんな気がする」
引っ越し先に持っていこうと、この間絨毯をしまったが、その上で若菜が持ってきたトランプを一緒にしたことをぼんやり思い出す。
そうしてしばらく「あの時はババ抜きをした」とか、その後神経衰弱をして俺が負けたとか、おぼろげな記憶のとりとめのない話が続いた。
でもそれは単なる時間稼ぎみたいなもので、俺は若菜が好きだと伝えて、若菜も俺が好きだと伝えた後の、気恥ずかしさをごまかすだけのものだったのかもしれない。
それに焦りもあった。
せっかく若菜と気持ちが通じ合っても、これからのことをまだ考えられていない。
(でも)
大事なことだから焦って考えて答えをすぐ出すのはよくない気がした。
若菜に今日告白しようと決めてはいたが、若菜が俺を選んでくれるかは賭けみたいなものだったし、この先のことはなにも考えられていないままの告白だった。
「……なぁ」
床を見つめたまま言うと、同じように床を見ていた若菜がこちらを見たのがわかる。
「なに?」
「改めて言うのもなんだけど……俺、若菜と一緒にいたいと思ってるんだ」
俺も顔をあげ、ゆっくり視線を右へ移した。
視線の先には若菜のすこし丸くなった目があって、小さな俺が映り込む。
「俺は明日から異動だし、いつ帰ってこられるかもわからないし……。若菜も若菜で、おじさんのことも、家のことも、いろいろあるだろ。でも……これからのこと、またふたりで話して決めていきたいと思ってる」
言った後、思えば俺から若菜にこうして提案したことってあったか、とふいに場違いなことを考えた。
今まで若菜は俺に対してお姉さん風を吹かせるのが常で、俺にあれこれ指図していた。
当然提案も決定権も若菜にあったし、だからだろう。
今感じている不安に似た緊張は、この部屋にふたりきりになった時とは違う―――受け入れられるかどうかの不安と緊張だ。
若菜は思いがけないことを言われた時のように、しばらく丸い目のまま俺を見ていた。
それから思い出したように大きく瞬きをして、ふっと目尻を和らげる。
「うん……そうだね。そうしてほしい。私も湊とこれからも一緒にいたいと思ってるから、一緒に考えよう」
若菜が言った時、俺の中でふっと、硬くなっていたなにかが緩むのを感じた。
若菜の瞳に映っている俺が、ほっとしたように表情を和らげている。
よかった。若菜がわかってくれて、そう言ってくれて。
今すぐいろんなことに結論は出せないけど、でもそういう俺を若菜は受け入れてくれたことにほっとしている。
それからすこしずつ頭に浮かんだのは、おじさんのことや店のこと……。
そして、原田のことだった。
(原田)
駅で別れたばかりのあいつを思い出し、なんとも言えない気分になる。
(……今思えば、本当に知りたくなかったな)
あいつの若菜への気持ちを知らなければ―――あいつが不器用で、でも正直に若菜を好きだと俺自身が強く感じていなければ、今こんな気持ちにはなっていない。
(でも)
だからこそ、あいつと向き合わないと……いけないよな。
これまで逃げてきたけど、俺はあいつの若菜への気持ちを知り過ぎてしまっているし、相談も乗ってきたことになっている。
あいつのほうが俺より若菜にふさわしいと思いつつも、心の奥では認められなくて比べて僻んで、そんな小さな俺を知られたくなくて、本心をさらけ出して戦って傷つきたくなくて、隠してきた、あいつに言えていない俺の気持ち。
(……最悪だな)
思い返すと、わかっていたことながら、自分が最悪すぎて笑うしかない。
最悪ついでにまた最悪なのは、原田に誠実じゃなかったことを―――あいつに再会して若菜のことを好きか聞かれた時、はぐらかして逃げたことを、本当はずっとずっと引っかかっていたことだ。
あの時もし、正直に自分の気持ちを言えていたら―――。
(……いや)
あの時の若菜への気持ちは、異性としての好きというより「特別で大事」が適切だったから、原田に口にした言葉だって嘘じゃない。
嘘じゃないけど、その感情をひも解いたら「好き」で、「ほかの男に取られたくないほど大事」だったのに、気付かないふりをして言えずにごまかしていたことが、原田に対してずっと気が咎めていた。
「湊?」
ふいに若菜に顔を覗き込まれ、俺は苦笑いを返した。
「あ、いや……。原田のこと考えてた」
そう言うと、若菜もほとんど無意識のようにすうっと眉を下げる。
「私も……原田くんにはちゃんと話さなきゃ、って思ってる」
若菜は視線を俺から外し、ベッドに座り直した。
前を向いた若菜の神妙な、でも俺よりずいぶんしっかりした顔に目がいく。
「私ね、原田くんには感謝してるんだ」
若菜からこぼれた言葉に、胸の自分でもわからないどこかがズキリと痛んだ。
「お父さんや家のこともそうだけど。でもなにより、私のことを好きだって言ってくれたことを、ありがたいって思ってる」
ズキリと胸に走った痛みはじくじく痛み出し、次第に息まですこし苦しくなった。
「だから……私はきちんと話さないといけないし、原田くんが納得してくれたらいいなって思う。どんなことを言われても、受け止めないといけないなって思ってる」
若菜はそう言い、さっきまでの困ったような、悲しそうな表情をほどいた。
「……って、自分で言って思ったけど、そんなこと当たり前だよね。でも……そうなんだ。私は原田くんに、そう思ってるよ」
ふっと笑った若菜のまっすぐな目は、苦しかったり辛かったりが見え隠れしている。
その中でも誠実な意思を感じさせる、きれいな瞳だった。
(……あぁ、すごいな)
頭ではなく、心がひとりでに呟いた。
若菜を見返しながら、痛んだ胸の別の場所から、感嘆とどう言葉にしていいかわからない、苦さや苦しさじゃない感情が生まれてくる。
俺は原田と向き合うのが心の奥の奥では面倒だと思っているし、若菜とうまくいったことを言わなくていいなら言いたくない。
もめるかもしれない話し合いなんてしたくない。
でも……若菜はそんなこと考えもしてないんだよな。
原田と向き合うのが当たり前で、普通で、やるべきことなんだよな。
……俺はそんなふうに素直に思えない。
でも、俺にはない若菜のそういうところは眩しいし、若菜を好きだから、俺も見習いたいと思う。
「俺も……そうするよ。原田に話す」
口から零れた言葉は、やっとというのか、無意識というのかわからない。
けれど、それでもほどくようにするりと口から出た。
若菜はしばらくじっと俺を見て、「そっか」と小さな声で呟く。
「よく知らないけど、原田くんと湊もいろいろあるんだよね。ていうか、本当はふたりでどういうこと話してたのか気になってたんだけど」
遠慮がちに、でもどこか恨めしそうな目で若菜は言う。
「あぁ、それは……」と言ったものの、言葉は尻すぼみになった。
原田との話は、あいつの若菜への思いと、それに対する俺の濁した話で、それを若菜本人に直接言いたくはない。
「まぁ、それは……聞かれてもなんて言えばいいかわかんない」
「えー……。そうなの?」
若菜は明らかに不服そうだ。
でも「そっか」と苦笑いするに留まったのは、そういうことは聞いても答えられるものではないとわかってくれたのかもしれない。
俺も苦笑いし、気まずい話は終わりだというように、お互い視線が外れた。
同時に真正面にあった壁時計が目に入る。
時刻は午前2時。
(そろそろ帰さなきゃ、か)
若菜も明日仕事だし、俺も朝引っ越しをしてそのまま新しい職場に勤務だ。
若菜も俺と同様、じっと時計を見ている。
帰らないといけないのはわかっているけど、まだ離れがたいのは雰囲気で感じる。
俺も同じだから胸が詰まるし、本音を言えばまだ帰したくない。
けど……それで若菜が寝不足になっても嫌だし、俺のエゴだから。
「そろそろ、帰るか」
言って若菜を見れば、若菜も俺を見て―――寂しそうな顔をして、頷いた。
うっすら微笑んだ、眉を下げた儚い顔を見て、また胸が苦しくなる。
……あぁ、そういう顔をされると、本気で帰したくなくなるな。
触れたい、と本能的に思った。
だけど若菜にそういうことをしたことがないし、手を繋いだことも抱きしめたことも、30年若菜といて今日が初めてだった。
だから―――。
すぐ隣にいるのに、手を伸ばすのにすごく勇気がいった。
でも俺は若菜の目を見つめて微笑み、触れてそっと引き寄せた。
頬に触れた若菜の髪の感触。
腕の中のやわらかな身体の温かさ。
心臓が破裂しそうなほどドキドキしている。
若菜が今どう思っているかも気になって、不安で怖い。
でも同時にずっとこうして若菜を抱きしめていたいと、自分でも驚くほどの切ない強さで思った。
(……あぁ、俺は若菜が好きなんだな)
こんなにも当たり前に、心の中心にある想いを、認めるまでにずいぶん遠回りしてしまった。
「好き」という気持ちが膨らんで苦しいくらいなのに、本人に伝えるのはどうしてこれほど難しいんだろう。
照れも恥ずかしさもごちゃまぜになって言葉が出てこないし、だからこんなふうに体が動いて、気持ちを伝えようと抱きしめるしかできない。
(好きだ)
せめて今、俺が思っていることが、若菜にすこしのズレもなく伝わればいいと思った。