ソラマリアは神や怪物と時代を共にした古の英雄にも劣らない勇敢さで躊躇いも葛藤もなく生きる屍に飛び掛かり、襲い来る者たちを布でも断ち切るように切り捨てていく。屍もまたそこに恐れはなく、また痛みもないようで、傷も怪我もものともせずに突き進んでくる。
ソラマリアの戦士の体に染み込んでいる生者を相手にする時の定跡は役に立たないはずだが、相手の機動力を奪うために足元を斬りつける姿は慣れたものだった。一対多にもかかわらず入り口の狭さを利用して防ぎきっている。生きる死体から赤黒い血は噴き出さず、乾いた肌からどろりと滲みだしていた。
その隙にレモニカは演奏を試みる。『年輪師の殉礼』を解呪すれば、ムローの都で営みの真似事をしている全ての生きる屍を停止させることになるが、悩んでいる場合ではない。
レモニカは未知なる楽器を顕現させ、展開し、身の内から溢れ出す拍動に従い、演奏を試みる。以前の演奏同様に音と力が席巻し、シュカー領全土へさざ波の如く響き渡るのを感じた。しかしレモニカの太鼓や鐃鈸の解呪の音色が響き渡っても、生きる屍たちはまるきり意に介さずソラマリアに襲い掛かり続ける。死体の四肢が積み重なるばかりで、新たな死体が外から続々と追加されている。足を失って倒れた死体とて黙って見学しているわけではなく、這いずりながらソラマリアに掴みかかっている。
「一体どうして解呪できないの?」レモニカは楽器を太鼓一つへと縮小する。「ソラマリア、一旦地下へ引くわ」
レモニカは足早に土埃舞う地下への階段を先導し、先に降りて行った大王国の調査団の姿を探す。松明に照らされた地下にあったのは、レモニカが想像していたような納骨堂や祭壇といった厳かな地下聖堂ではなく、世俗的な倉庫や酒、保存食の貯蔵庫だった。そして地下でもまた丁丁発止が繰り広げられていた。つまり生きる屍たちに待ち伏せされていたことになる。
鋼のぶつかり合う音と舞い散る火花の中、レモニカは悔しそうに唸る。「わたくしたち、罠にかけられたということ?」
ソラマリアは再び剣を抜いて追っ手の屍と応戦する。
「しかし誰にですか?」
この街にいたのは救済機構の僧兵たちと呪われた屍たちだけのはずだった。僧兵たちはその屍たちによって一部を除いて全滅した。この街に潜む者などもういないと誰もが考えていたのだ。
レモニカはソラマリアを盾に、食料棚を背にして考えあぐねる。
「この屍たちが自身で考えている可能性はないかしら?」
「だとすれば新たな生を少しは惜しみそうなものですが」
屍たちはまさに今ソラマリアによって新たな死を与えられている。体をばらばらにされてもなお動けるようだが、ソラマリアの手による徹底的な破壊によって関節を失い、感覚器官も失った彼らは営みを失う。それはきっと死と等しく恐ろしいはずだ、もしも生者と変わらない心があるとすれば、あるいは死以上に恐ろしいことかもしれない。
戦線は地下へと進んでいく。もしくは退いていく。当然、地上の方が生きる屍の兵力が多く、地下に待ち構えていた屍の軍団はフシュネアルテ率いる調査団に押し込まれているようだ。
「地下に逃げ込んでおいてなんだけど、さらに地下へ押し進もうとは。フシュネアルテさま。中々の女傑ね」
「私たちも進みますよ。全く数が減りません。ムローの都全ての屍が終結しているのかもしれません」
「屍の生き埋めになってしまわないかしら?」
「それが狙いだとすればまんまとはめられていますね」
そのような懸念を抱きつつもとにかく地下へ地下へと降りるほかなかった。
今度はいかにも秘教的な空間が待ち受けていた。土と岩に崇敬を彫り刻んだ岩窟神殿だ。壁龕には名も無き無貌の神官の像が納められている。天井には精細な彫刻が施されており、、横たわった死者の頭上に翼の生えた神か天使の如き姿があり、祝福の表現なのか光輝を放つ無数の粒を与えていた。色褪せてはいるが質の良い絨毯が敷かれ、銀の燭台や芯切り、手を合わせる図柄の描かれた鉢が祭壇のような台に置かれている。その空間は倉庫よりも広く、赤みを帯びた光に照らされている。合掌茸だ。忙しいソラマリアの代わりにレモニカは周囲の様子を確認する。
その神聖な空間にはこの街には珍しいことに動かない死体が所狭しと並んでいた。普通の死体ではない。皮と肉を残しつつ腐食を逃れた木乃伊だ。そのどれもが合掌し、つまり何かに祈っており、そして合掌茸に覆われている。
「信仰対象の本体はこれね。つまり、やはり、これを信仰している者たちがいるということよ。一体この者たちは何者――」
背中が何かに当たり振り返る。調査団が詰まっていた。奥の方ではまだ屍と戦っているようで、叫び声と鋼のぶつかり合う音が響いている。
「行き止まりよ、ソラマリア」
「とにかく私のそばを離れないでください」
レモニカはソラマリアの背中に隠れつつ、何か打開策を求めて周囲を探るが何も見つからない。
次の瞬間、何の予兆もなく、突然床が崩れた。レモニカの体は重さを失い、視界が土埃に覆われる。が、すぐにソラマリアの力強い腕に抱き留められ、落下が止まる。
「じっとなさってください」とソラマリアが耳元で囁く。
二人は土埃が収まるのを待つ。一体何が起こったのか分からないが、ソラマリアの腕の中で宙吊りになっているのは確かだ。下の方から呻き声が聞こえる。かなりの高さだ。
しばらくしてようやく土埃が落ち着き、呪文を呑んだ松明の強い光が隅々まで届き、状況を理解する。さらに地下に巨大な空間が広がっていたのだった。何者かの罠ではなく、多数が詰めかけたことで床が崩れ落ちたらしい。ソラマリアは床の崩落直後、即座にレモニカを抱え、手近な柱に剣を突き刺して、落下を堪えた。同じことができた者はいないが、屍が下敷きになったらしく、ほとんどの者が生き残っている。無傷な者は多くないようだが。
そしてここは巨人の墓所だ。間違いない。前にバソル谷で訪れた遺跡と違い、見たところ何とも融合してはいないようだ。崩れた壁の向こうから黒ずんだ土が幾らか流れ込んできてはいるが本来の姿を保っている。人間の築いた神殿も収まるような巨大な空間を、樫の太さと杉の高さを併せ持った巨大な柱が支え、長らく争った敵を打ち砕いた戦勝記念碑の如き巨大な棺が並んでいる。小さな人間が訪れることは想定していない造りだ。階段を上り下りするにも一苦労しそうだ。
そもそもまだ落ち着いて古代遺跡を見学できる状況ではない。崩落した穴から次々に生きる死体が考えなしに穴に飛び込んで降ってくる。
黒い土に塗れた床では再び戦いが始まっている。柱に縋り付いているレモニカとソラマリアはそのままではただ眺めていることしかできない。ただでさえ追い詰められていた形勢がさらに悪化している。崩落によって調査団は多くの怪我人を出し、生きる死体たちもそれは同じだが怪我を意に介する者はいない。
「降りて助勢します。背中につかまっていてください」
「この穴は塞げないの? 氷の魔術で」
呪われた屍たちが下の様子を眺めつつ、尽きることなく次々と穴から落ちてくる。このまま街の全ての屍を微塵切りするまでにどれだけの被害が出るか分からない。
「そうですね。少しは時間稼ぎになるでしょう」
ヴィリーハントに伝わる雪を称える歌に、戦士たちを鼓舞する掛け声を織り交ぜ、剣を鍛える鍛冶屋が鎚と共に打ち込む祈りの言葉で閉じる呪文が、ソラマリアの唇の間から崩落によって空いた穴へと届くと穴を閉じるように氷の槍が何本も伸び、氷の格子を形作る。
「降りますよ。つかまっていてください」
ソラマリアは剣を引き抜いては刺し、僅かな隙間に指をかけて、地下の戦場へと徐々に降りていく。
レモニカは入り乱れる地下戦場を眺めながら、同じように混乱する頭を整理する。何もかもが思い通りに進まない。考えが足りないのか。何かを見落としているのか。
ハーミュラーはおらず、大王国、機構双方の被害を防げず、挙句の果てに最後の手段である解呪もできなかった。なぜ解呪できなかったのか。考えられるのは解いた先から新たに呪われている可能性だが、もしもそうならハーミュラー自身が呪い直しているという仮説は間違いだったことになる。あるいはシシュミス教団内で呪いが共有されているのかもしれないが。
再び生きる死体との戦いが始まる。大王国の戦士たちも、屍使いたちとその操る屍も入り混じり、ソラマリアが蹴散らし、レモニカが逃げ隠れする。しかしもはやこれ以上は後退できない。この広い空間に出入り口は見当たらない。状況は悪くなる一方だ。
レモニカはふと天井の穴を見上げる。穴から見下ろしている生きる死体がいたことを思い出したのだ。穴にはまだ少し氷の格子が残っているが、既に屍が落下できるほどの隙間が空いてしまっていた。ほとんどの呪われた死体は自分が落ちることに気づいてすらいない様子だ。
しかし注意深く見ていると、ずっと穴から見下ろしているばかりで落ちてこない者がいることに気づく。その振る舞いを見るに怯えているようだ。つまり呪われた死者ではなく、生者ということだ。
「ソラマリア。生きる死体の中に生者が紛れ込んでいるわ。穴から見下ろしている。とっ捕まえてきて」
「では背中につかまってください」
「良いから。一人で行った方が確実でしょう?」
「レモニカ様を確実に守るのが仕事です」
「早くなさい。早く終わらせてすぐ戻って来なさい」
ソラマリアは深呼吸だか溜息だか分からない大きな呼吸を一つして跳躍する。柱の僅かな凹凸に指をかけて体を引き上げ、最後には柱を蹴って穴へ跳び込む。次の瞬間には屍使いの屍を除く全ての死体が動きを止めた。やはり彼らの仕業だったのだ。
つまりレモニカの地上での演奏によって、既にこの土地の呪い、『年輪師の殉礼』を一度は解呪したのだ。しかしただの死体に戻る間もなく彼らによってもう一度呪われ、続けて襲い掛かってきたと考えられる。これが各地の呪いの復活の原因だろうか。
「本当に早いわね」とレモニカは感心する。
状況が分かっていない調査団の面々は唐突な勝利らしきものに喜び、雄叫びを上げ、中には動かなくなった死体を痛めつける者もいた。
レモニカが苦言を呈そうと口を開きかけたその時、聞こえて来た「待て!」と怒鳴る声はソラマリアのものだった。
レモニカが見上げると天井の穴から何者かが落ちてくる。落下するその一瞬の間に必死に呪文か祈りか何かを唱え、そして叫ぶ。
「棄民に寄り添う慈悲深き神に――」
しかし男はあえなく地面に叩きつけられ、白い服を真っ赤に染めた。それはシシュミス教団の神官の衣装だ。
皆が呆気にとられ、その身動きしない墜落者を遠巻きに見つめていると、再び地下空間に犇めく屍たちが蠢きだした。しかし奇妙なことに――動くだけで十分奇妙なのだが――死体は立ち上がるでもなく、蛆さながら這うようにして、近くの者に襲い掛かるでもなく、床に叩きつけられた神官の元へ集まっていく。
屍の動きに、人間の尊厳に反する不気味な蠕動に、恐怖というよりも生理的嫌悪感に、皆が釘付けになっている。
そうして這い集まった屍が鯨のように巨大な肉塊へと変じる。屍を継いだ六本の脚が生え、指を継いだ翅が生え、頭を継いだ大きな複眼が生える。どうやら蠅を模しているらしい、その悍ましい怪物は呪いに塗れた土地神、祟り神に違いない。