テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#パワハラ上司
#インフルエンサー
537
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
家から一歩も出たくなかった。
けれど、今日は進級がかかった重要な本試験の日だ。
私は、額を隠すように深く帽子を被り、特大のマスクで顔の下半分を厳重に覆った。
右側の、もはや自分の意思では微塵も動かなくなった「無機質な美咲の顔」を隠蔽するために。
大学の廊下を歩く。
すれ違う学生たちの無遠慮な視線が、針のように肌に突き刺さる。
「……ねえ、あれ。奈緒じゃない?」
「……美咲さんのパクリ、エスカレートしてない? あの格好、不気味すぎるんだけど」
ひそひそとした嘲笑が耳を打つ。
私は顔を伏せ、逃げるように早歩きで教室へ向かった。
だが、視界の端に映り込む自分の右手が、また一段と透けるように白くなっている。
指先から第一関節にかけて
あのプラスチックのような、血の通わない質感がじわじわと侵食を広げていた。
「……っ」
指定の席に着くと、前の席に座る女子たちがスマホを囲んで笑っていた。
画面を覗き見るまでもない。
「見てこれ、奈緒の最新投稿。美咲さんに寄せすぎてて、もはやホラーなんだけど」
「本当、加工のやりすぎ。もう人間じゃないみたい。自分がないっていうか、執着が怖すぎるよね」
────違う。
加工なんかじゃない。
私は喉を掻き切るような思いで叫びたかった。
だが、声を出そうとすると、右側の唇がゴムのように引き攣れて、意味のある言葉にならない。
『ピコン』
静まり返った教室に、無機質な通知音が響き渡る。
震える手でスマホを開くと、アプリのトップ画面には『シンクロ率:85%』という冷酷な数字。
そして、見知らぬアカウントからのダイレクトメッセージが届いていた。
《偽物のくせに、美咲さんの席を奪うな》
《消えろ、化け物》
「……あ……ああ……」
喉の奥から、砂を噛むような乾いた音が漏れる。
その時、教室の入り口がにわかに騒がしくなった。
「……美咲さん!?」
誰かの驚愕の声に顔を上げると
そこには数日前よりもさらに正気を失い、衰弱しきった美咲が立っていた。
彼女はもう、自力で歩くことすら限界のようだった。
全身を包帯でぐるぐる巻きにし
その隙間から覗くわずかな肌は、腐りかけの果実のように泥色に濁っている。
美咲は、虚ろな歩調でまっすぐに私の方へと近づいてきた。
包帯の奥に沈んだ瞳だけが、獲物を見つけた猛獣のように異常なまでの光を放っている。
「奈緒……みんなが、奈緒を呼んでるよ。…私の『代わり』を、世界が待ってるんだよ」
美咲が、枯れ木のような手を伸ばし、私のマスクに触れた。
「やめて……!」
拒絶しようと腕を上げようとしたが、指一本動かない。
シンクロ率が高まるにつれ、私の肉体の制御権は
私という意識から離れ、システムという名の「フィルター」へと移譲されていた。
美咲が、陶酔したような手つきで私のマスクをゆっくりと引き剥がす。
静まり返った教室に、誰かの短い、鋭い悲鳴が突き刺さった。
「……嘘。……美咲さんが、二人……?」
私の右顔は、もはや鏡合わせの「美咲」として完璧に定着していた。
対照的に、左側の「奈緒」の顔は、激しい苦痛に歪み、どろりとした涙を流している。
その異形なコントラストを目にした周囲の反応は、同情などではなかった。
それは、生理的な嫌悪と、残酷な好奇に満ちたものだった。
「パクリの次は、整形? 執念深すぎて引くんだけど……」
吐き捨てられた冷たい言葉。
私は、自分の「本当の顔」が、この世界から完全に拒絶され、居場所を失ったことを悟った。
絶望に染まる私の左脳を嘲笑うように
右側の「美咲の唇」だけが
私の意志を置き去りにして、優雅に、そして残酷な弧を描いて微笑んだ。