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#ワンナイトラブ
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部署のフロアに、プリンターの駆動音と誰かの話し声が小さく響いている。
時計の針は、もうすぐ夜の10時を回ろうとしていた。
「はぁ……終わった……」
私は小さく溜息をついて、デスクトップ画面に並ぶエクセルの数字を凝視した。
入社3年目。
田中結衣
仕事にも慣れてきたけれど、この時期の決算資料作成は、何度やっても胃がキリキリする。
ふと視線を上げると、少し離れた席でキーボードを叩く高橋徹先輩の背中が見えた。
広い肩幅、清潔感のあるスーツ、整えられた髪。
部署のムードメーカーで、誰にでも優しくて、仕事もできる。
そんな高橋先輩に密かな憧れを抱いてから、もう一年以上が経つ。
もちろん、口が裂けても誰にも言えないけれど。
「田中さん、遅くまでお疲れ様」
不意に声をかけられて、心臓が跳ね上がった。
いつの間にか、隣に高橋先輩が立っている。
「高橋先輩もお疲れ様です。先輩も今帰るところですか?」
「ああ、ちょうどいいし一緒にエレベーターまで行こうか」
頭が真っ白になる。
二人きりのエレベーターなんて、心臓が持たない。
でも、断る理由なんてあるはずもなくて、私は「はい!」と勢いよく頷いてしまった。
オフィスを出て、静まり返った廊下を二人で歩く。
心拍数は、普段の倍速で刻まれていた。
エレベーターに乗り込み、ボタンを押す。
扉が閉まり、閉ざされた空間に先輩と二人きり。
先輩のスーツから、微かに洗剤の香りと
少しだけタバコの匂いが混ざった心地よい香りが漂う。
(……はあ…いい匂いするしかっこいいし…優しいし、好きだなぁ)
そんなことを考えていた、次の瞬間だった。
ガクン、と大きな衝撃が走った。
エレベーターが、激しく揺れて停止する。
「え……?」
照明が消え、視界が真っ暗闇に飲み込まれる。
私は反射的に息を呑んだ。
幼い頃のトラウマが、脳裏をよぎる。
真っ暗な狭い場所、出口が見えない恐怖。
「……っ!」
喉の奥からヒュッと変な音が漏れる。
視界が揺れ、立っているのもやっとだ。
指先から力が抜け、視界がぐるぐると回り出す。
「田中さん、大丈夫…?」
暗闇の中で、先輩の声がした。
私は自分の意思に反して、先輩のスーツの袖を力一杯握りしめていた。
「す、すす、すみません…っ、暗いところ、こわく、て……っ」
涙がこぼれ落ちる。
震えが止まらない私に、先輩は動揺しながらも、すぐに温かい腕で私を抱きしめてくれた。
「田中さん……落ち着いて」
暗闇の中、先輩の低い声が私の耳元で囁く。
スーツ越しの体温が直に伝わってきて、冷たく強ばった指先が徐々に解れていくのが分かった。
「ゆっくり呼吸しよう、俺に合わせてみて」
言われるままに息を吸って吐く。
肺の奥まで冷たい空気が満ちていくにつれ、パニックは少しずつ収まっていった。
しかし代わりに湧き上がるのは羞恥だった。
こんな姿を見せてしまった自分が情けなくて仕方がない。
泣き顔を見られるのは嫌なのに、手を離そうとするとまた震えがぶり返してしまう。
「…ご、ごめんなさい……っ…」
「謝らなくていいよ。こっちこそ、気づくのが遅れてごめんね」
高橋先輩の指がそっと私の背中をさすった。
まるで壊れ物を扱うような優しさに胸が熱くなる。
「──復旧まで少し時間かかるかもしれないけど、その間だけでもこうしていよう」
「……はい……」
彼の胸に額を押し付けていると、心臓の鼓動が聴こえてくる。
自分と同じくらい早く、そして力強く脈打っているのを感じて少し安心した。
心臓の鼓動は早まるばかりだけど、先ほどまでの恐怖とは違う───
別の意味でのドキドキが、私の胸を激しく支配し始めていた。