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先輩の腕の中は、驚くほど温かかった。
「……大丈夫、俺がついてるから」
耳元で囁かれる低くて穏やかな声。
背中を規則正しく撫でてくれる手のひら。
暗闇への恐怖で凍りついていた私の体が、少しずつ、先輩の体温を吸い取って溶けていく。
(……ああ、私。今、大好きな人に抱きしめられてるんだ)
パニックの最中なのに、頭の片隅でそんな不謹慎な喜びが湧き上がる。
トク、トク、と、重なる私の胸の鼓動と先輩の鼓動が、どっちのものか分からなくなる。
震えが少しずつ収まってくると、今度はこの状況がとてつもなく恥ずかしくなってきて
顔に一気に熱が集まった。
「あ…あの、高橋先輩、すみません。もう、大丈夫、です……っ」
消え入るような声で告げると、先輩の腕にわずかに力が入った気がした。
でも、すぐにパッと離される。
「……少しは落ち着いた?」
暗闇に目が慣れてきて、先輩の輪郭がぼんやりと見える。
「は、はい」
至近距離で見つめ合う形になって、私は慌てて視線を泳がせた。
その時、ガタッと音がして、パッと照明が灯った。
エレベーターが再び、ゆっくりと動き出す。
「あっ、動いた……」
一階に着き、扉が開く。
そこにはいつもの、見慣れたロビーが広がっていた。さっきまでの密室が嘘のように。
安心感からか、それとも緊張の糸が切れたせいか、一歩踏み出そうとした私の足が、がくんと崩れた。
「おっと……!」
咄嗟に先輩の腕が伸びてきて、私の体を支える。
そのまま横抱きにするような形で、先輩は私をロビーのソファへと運んでくれた。
「まだ、顔色が悪いね」
「すみません、ご迷惑おかけしてしまって……私、情けなくて…」
「謝ることじゃないよ、部下を支えるのは上司の役目だ」
こんなときまで先輩は神対応で、好きになるなと言うほうが無理があるだろう。
◆◇◆◇
ソファに座らされた私を、先輩は屈んで覗き込んでくる。
そんな優しい目で見ないでほしい。
隠しているはずの「好き」という気持ちが、今にも溢れ出しそうになるから。
「今からタクシー呼ぶから。お金も心配しなくていい、家まで送るよ」
「えっ!悪いですよ、高橋先輩にこんなに迷惑をかけてしまったのに…それこそ一人で帰れますから……!」
慌てて財布を取り出そうとする私の手を、先輩が制した。
その目は、いつもの「ムードメーカー」の明るい先輩とは少し違う
断らせない強さを持った、一人の大人の男性の目だった。
「こんな時間に、あんなに震えてた女の子を一人で帰せるわけないでしょ?」
さり気ない女の子扱いにドキッとしてしまう。
「…なにより俺の気が済まないんだ。だから、お願い。……ね?」
「お願い」なんて、そんなの反則だ。
私はただ、小さく「……はい」と答えることしかできなかった。
夜の街を走るタクシーの中、隣り合って座る二人の間に会話はなかった。
けれど、窓の外を流れるネオンの光に照らされた先輩の横顔を盗み見ながら
私はこのまま夜が終わらなければいいのにと、密かに願ってしまっていた。
#ワンナイトラブ