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朝は、まだ完全には目を覚ましていなかった。
夜と朝の境目に取り残されたみたいな時間。
廊下の窓から差し込む光は薄く、白というより、
ほとんど透明に近い。
私は鍵を指先で回しながら、いつもより少し遅い
足取りで階段を上っていた。
昨夜はあまり眠れなかった。
理由は特に思い当たらない。
ただ、胸の奥が落ち着かなくて、何度も寝返りを打っただけだ。
最近、身体が冷える。
季節のせいにするには、少し違和感がある冷え方だった。
手袋をしていても、指先の感覚が戻るまで時間が
かかる。
(疲れてるだけ)
何度もそう思う。
思う事で、今日もやり過ごせるから。
介護福祉の仕事は、感情を使う。
誰かの人生の1部に触れて、
触れたぶんだけ、何も言えない気持ちを
持ち帰る。
だから私は、出来るだけ“普通”を保つ。
食事をして、眠って、働いて。
それだけで良い、と自分に言い聞かせていた。
― だから、最初は見間違いだと思った。
自分の部屋の前。
ドアの横、壁際の影に、誰かが座り込んでいる。
「…え?」
声が漏れた。
一瞬、引き返そうとした。
知らない人に関わるのは、正直怖い。
時間も余裕も、心の余白もない。
でも、足が止まった。
その人は膝を抱えて、視線を落としている。
逃げる気配も、威圧する気配もない。
ただ、そこに“置かれている”みたいだった。
近付くにつれて、細かい事が目に入る。
靴は少し汚れているのに、乱れていない。
服も、安物ではない。
生活の匂いがする。
(迷子、かな)
そう思った瞬間、胸がぎゅっと締まった。
「…大丈夫ですか?」
声をかけた瞬間、自分でも驚くくらい心臓が
跳ねた。
怖さと心配が、同時に押し寄せる。
その人は、ゆっくり顔を上げた。
そして ―
世界が、止まった。
「あ…」
息を吸うのを忘れた。
画面の向こうで何度も見てきた顔。
優しく、柔らかくて、
鍵盤に向かうと空気を変えてしまう人。
― 雪下天音(ゆきしたあまね)。
(違う、似てるだけ)
(そんなわけない)
必死に否定しようとしても、
目が誤魔化せなかった。
「…すみません」
彼の方が先に謝った。
その声は知っているはずなのに、
どこか不安定で、頼りない。
「ここ…どこですか?」
言葉の意味が、すぐに理解出来なかった。
「…え?」
「僕…起きたら、ここにいて」
彼は周囲を見回す。
まるで初めて見る世界みたいに。
「家、ですよね?」
背中に、嫌な汗が流れた。
「…覚えて、ないんですか?」
私の問いに、彼は小さく首を振った。
「名前も…どうしてここに来たのかも」
冗談だと思いたかった。
ドッキリだと思いたかった。
でも、彼の目は嘘を知らない目だった。
助けを求める事すら、
どうして良いか分からない目。
「…スマホ、ありますか?」
「あります」
差し出されたスマホ。
ロック画面は真っ暗で、
指紋認証も顔認証も反応しない。
「…壊れてる?」
「…多分、壊れてるのは僕の方です」
自嘲するように笑ったけれど、
その笑顔はすぐに消えた。
「…怖くて」
ぽつり、と零れた言葉。
「起きたら知らない場所で、知らない自分で」
胸の奥が、強く締め付けられた。
(この人、本当に何も覚えてない)
理解した瞬間、恐怖より先に感情が湧いた。
― 放っておけない。
理由は、後からいくらでもつけられる。
有名人だから、とか。
危険そうじゃないから、とか。
でも本当は、
ただ、その場に座り込む彼が、
あまりにも“生きていた”からだ。
「…寒いですよね」
自分の声が、少し震えた。
「とりあえず…中、入ります?」
言ってから気付く。
私、何してるんだろう。
でも、引き返せなかった。
彼は少しだけ迷ってから、頷いた。
「…お願いします」
その一言が、
助けを求める音だった。
ドアを開ける。
見慣れたはずの玄関が、
知らない世界への入口みたいに見えた。
「靴、ここで大丈夫です」
「…はい」
キッチンに案内して、お湯を沸かして、
マグカップを出す。
いつもの動作なのに、手が震える。
「…ありがとうございます」
両手でカップを包む仕草が、近い。
近過ぎる。
(夢みたい)
でも、触れたら消える夢じゃない。
これは、現実だ。
「…あの」
彼が遠慮がちに言う。
「迷惑じゃ、ないんですか」
私は少し考えてから、笑った。
「迷惑だったら…声、かけてません」
それは、本心だった。
(拾ってしまった)
心の中で、そう思う。
拾ってはいけない人を。
拾ったら、、普通じゃいられない人を。
でも同時に、確かに思った。
(放っておけなかった)
理由なんて、いらなかった。
あの朝、私は彼を見て、ドアを開けてしまった。
それだけで、この物語はもう ―
引き返せなくなっていた。