テラーノベル
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どしゃ降りの雨の中で抱き合ったことを、忘れないでいて欲しいと思う。
2人してボロボロの捨て犬みたいにびしょ濡れになりながら、まるでこの世で頼れる相手はお互いしかいないみたいに、一心に求め合った日のことを彼は覚えているだろうか。いや、きっともう忘れているだろう。あの時交わした、はじめてのキスのことなんて。
俺は今でもこれ以上ないくらい鮮明に思い出せるっていうのに。
彼の頬を流れた水のしずくは、雨にも見えたし、涙なのかとも思えた。俺はいくつもの透明な粒を滴らせる前髪をよけてから、濡れたその頬を拭ってあげた。もっとも、降り続ける雨の前じゃ俺の手のひらなんて殆ど意味はなしていなかったのだけど。
ちいさく震えた彼の肩。このまま、消えてなくなってしまいそうで、咄嗟にその身体を抱き締めた。腕のなかで微かに身じろいだ彼が、ほんの少し顔を上げた。その蜂蜜みたいにゆらゆら揺れる瞳に吸い込まれそうになりながら、気が付いたら俺たちは深い深いキスを交わしていたのだった。
彼が今日この部屋へ足を踏み入れた瞬間から、こうなるんじゃないかという予感は何となくあった。だって、今日の彼からは、いつもとは違う香りがしていたから。
「あ、ごめんめめ、俺用事を思い出した」
「え…?」
案の定、阿部ちゃんはそう言うと、腕時計をはめスマホをポケットに突っ込んで、もう帰るのだという意思をはっきりと示してみせた。にっこり優しげに笑っているのに、その瞳の奥には有無を言わせない力を持って。
「…今日はずっと一緒にいられると思ってた」
「んー、ごめんね?」
さっさと玄関へ向かって歩き出す阿部ちゃんを追いかけながら言うと、ごめんなんてこれっぽっちも思ってなさそうないい加減な答えが返ってくる。そんな様子は、いっそ清々しい。
「阿部ちゃん」
玄関のドアを開けようとした右手を掴んで顔を寄せる。唇が触れようとするその寸前で、すっと顔を反らせると、細くて冷たい指で俺の頬に触れて、阿部ちゃんは言った。
「それはまた、今度、ゆっくり会えるときにしよう?」
今度、っていうのは、なんて残酷な言葉なんだろう。不確か過ぎて、だけど、期待せざるを得なくて、喉の奥をふさがれたみたいに苦しくなる。
「………」
「そんな顔しないでよ。また連絡するな?」
俺が何も言えないでいると、ふ、と息を吐き出すように優しく笑ってから、阿部ちゃんはドアの向こう側へ行ってしまった。熱帯魚が尾ひれをひらひらさせながら身を翻すみたいに、身軽でしなやかなステップで。
一拍おいてから、衝動的に拳を振り上げる。ガァンと金属の鳴る音が、馬鹿みたいに虚しくあたりに響き渡った。
「…痛い」
ドアを殴ったところで、この気持ちに行き場ができるわけじゃなかった。もっとも、この拳の痛みによってほんの少しの間は、こころの痛みを忘れることができたような気がするけれど。
俺はその後どのくらい玄関でつっ立っていたのだろう。ようやく重い身体を動かしてリビングへ戻ると、微かに彼の残り香がした。いつもとは違うパフューム。その香りを纏う時は決まって手を繋ぐこともなく帰ってしまうのだと、本当はもうわかっていた。
彼には隠すつもりなんて毛頭ないのだ。そもそも、俺たちの関係はひどく曖昧で、俺が阿部ちゃんを縛り付けられる権利なんてない。腕を引いて、行かないで欲しいと言う資格がない。どれだけキスを交わして、身体を重ねても、心は繋がらない。
でも、俺はそれでも、ほんの一瞬だけでも良いから、阿部ちゃんが欲しかったんだ。
びしょ濡れで抱き合ったあの時みたいに、他の何も構わないで俺だけを見て欲しかった。
「………っ」
窓の外から雷鳴が響いた。突然の、激しい雨。ドキリと心臓が跳ね上がる。
嫌なイメージが頭の中を駆け巡った。雨の中で立ち尽くす阿部ちゃんの姿がフラッシュバックする。
ああ、早く雨がやんでくれたらいいのに。濡れそぼった彼の細い腕が、誰かにしがみついてしまうその前に。
誰のもとへ行ったの? 今頃、誰かに抱かれているの?
そんなことを考えてしまう俺は、心が貧しいのだろうか。
梅雨の季節のせいで雨の日が多い。阿部ちゃんとは、会えない日が続いていた。雨が降るのは嫌だけど、雨の日にはまた阿部ちゃんを抱き締められるチャンスが来るような気がして、そんな瞬間を俺は必死で待ち望んでいる。
『今度いつ会える?』
短くメッセージを送る。珍しく、すぐに返信が返ってきた。
『明後日でしょ?』
それは、俺たちグループの仕事の予定日だ。
そうじゃなくて。そう言いたかったけど、言えなくて、俺はそのままメッセージを終わらせた。
この間知り合いから、街で阿部ちゃんを見かけたと言われた。年上の男の車に乗っていたって。
まだ好きなの? もうやめたら? そう言ってみんなが笑うけれど、俺はどうしても阿部ちゃんが良かった。誰にも見せない、見せられない阿部ちゃんの姿を、俺にだけは見せて欲しいと思っていた。
どこまでどうしているのかは知らないけれど、阿部ちゃんが誰にも本気じゃないことだけは知っていた。それだけが俺の心の支えだったから。
何が阿部ちゃんをこうさせてしまったんだろう。いつから、こんなことに? 全部話して欲しいと思うのに、肝心の阿部ちゃんはそんなこと求めていないのだ。何が本当かもわからない話だけが、また今日も俺の耳に入ってくる。みんな人の噂が好きだった。
『二人で会いたいから、明後日の夜時間作って』
思い直して、もう一度メッセージを送る。明後日までに返事が返ってくることだけを祈っておく。
窓の外の雨が、強さを増した。正直もう心はズタズタになっていて、痛くて仕方がなかった。
だけど俺は、悪い噂くらいじゃ、ただの寂しい男にもなれないのだ。
@欲望のレイン(KinKiKids)
コメント
5件
🥹✨🖤💚
センシティブ設定にはしてないけども、なっちゃうのあるんですねぇ🤔
なんかこの曲はよくジュニアの子たちが歌ってるイメージで好き😂 さて、これからRAYS見ます🥹