テラーノベル
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────1月3日。菊が診療所にいる、最後の日。
「…………」
病室に漂う、悲壮感。
寝台に横たわる菊の目は、紅く腫れている。迫りくる別れに、一晩中泣いていたのだろう。
「…………菊」
「…………」
「その、向こうに着いたら…………俺と手紙でやり取りなんて、どうなんだぜ」
「手、紙…………ですか」
「ああ。傍にいられなくなる分、手紙でお前に色んなこと、伝えたいんだぜ。そしたら少しは、寂しくないだろ?」
そう言うと、菊は俺の国防服の袖を掴んで、縋るようにこう吐露した。
「 …………寧ろもっと、寂しい気持ちになるかもしれません。貴方の声が、姿が恋しくなって」
「菊…………」
「っごめんなさい、男なのに…………女々しいですよね」
「…………そんなことないんだぜ。寧ろそこまで俺のこと、好きでいてくれてたんだな」
「…………あ」
忽ち頬を赤く染め、恥ずかしそうに顔を腕で覆い隠す菊。俺は確信した。今更だけど、 今なら────言える筈だ。
俺の、お前への気持ちを。
「…………俺もお前が好きなんだぜ、菊」
*
「…………!」
菊の目が、驚きで見開かれる。
「好き…………なんですか」
「好きなんだぜ、 親友以上に。改めて訊くけど、お前は?」
「私、は…………」
菊は少し戸惑う素振りを見せたが、程なくして俺の右手を取った。
「貴方と、同じ…………同じ、気持ち…………です」
「…………そうか」
嬉しいんだぜ────そう呟いて、もう片方の手で彼の頭を撫でる。しかし菊の顔は徐々に悲しみに歪み、涙が目を縁取っていく。
「何で、また泣くんだぜ」
「折角通じ合えたのに…………明日にはもう、貴方に会えないから…………」
「菊…………」
「私…………嬉しかったんです。身内以外に、こんなにも私を気に掛けてくれる人に、 出会えたことが。私のような、死を待つばかりのつまらぬ病人に…………好意を向けてくれる人が、いてくれたことが」
だから貴方との別れが、悲しくて悲しくてならないんです────静かに流れる涙と共に、零れ落ちていく言葉。
転院すれば、其処で最期を迎えるのは確実だろう。つまり、二度と会えない────そんな絶望が、菊の心に影を落としていた。
それは、俺も同じだった。
人生で初めて出来た、仲の良い日本の人。
俺が朝鮮人であることを、受け入れてくれた人。
そして ────「初めての「恋」を、教えてくれた人。
そんな彼と、こんなむごい形で別れるのは、俺だって厭だった。
「俺も、お前と離れ離れになりたくないんだぜ」
「ヨンス、さん…………っぐす」
「お前みたいな、優しくて善い奴と仲良くなれるのは、きっとこれが最初で最後なんだぜ。俺は朝鮮人だから…………将来この国で、更に苦労するのは確かなんだぜ」
「ひっく、えぐ…………」
「俺はお前のこと、ずっと忘れないんだぜ。辛い時はお前のこと、必ず思い出すんだぜ」
俺は菊の動かぬ上体を起こしてやり、包み込むように抱き締めた。
「俺にとって、お前は希望なんだぜ。사랑한다…………愛してるんだぜ、菊」
額に口付けを落とすと、菊は更に嗚咽した。
「っ私、も…………貴方が、希望でした…………貴方のこと、死ぬまで忘れません。愛しています…………っっ」
菊は俺の唇に、自分の唇を重ねた。少しばかり、錆びた鉄の味がした。
*
翌日、診療所を訪れると────はたして菊の姿は、忽然と消えて無くなっていた。訊けば、早朝の内に連れ出されたのだという。
もぬけの殻と化した寝台の傍らで、あの壮年の看護婦が悄気ているのが見えた。
────ブゥゥン。
今日もまたB29が編隊を組んで、軽快に殺戮へと赴く。
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