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冬の夜の東京の高級住宅街の高台にある豪邸。その奥まった一室に、けたたましい警報ベルの音が響き渡った。
そろいの黒いスーツ姿の男が3人、家の奥から駆け付ける。彼らはある部屋の前で目を疑った。
頑丈な木製の扉の取っ手部分が丸ごと引きちぎられ、廊下に転がっていた。ドアノブには暗証番号を打ち込むためのパネルが付いた鍵も付いていたが、その部分も一緒にドアの板から引きちぎられている。
男たちが腰から特殊警棒を引き抜き、それを構えたまま壊されたドアを開け中に入る。
そこは高価な物品の収納庫のようだった。部屋中の壁や棚に、古今東西の宝石や美術品が保管してある。
部屋の真ん中には、ある人影が隠れる素振りも見せず、仁王立ちになっていた。部屋の灯りをつけた男たちが口々に叫ぶ。
「きさま、何者だ?」
「どこから入った?」
「動くな! 半殺しにされたくなければな」
灯りに照らされた人影は異様な姿をさらした。全身を青黒いレザーの繋ぎの服に包み、男たちの存在など全く意に介さないという感じで、部屋の中を見回している。
男たちが特殊警棒を構えて前に回ると、その男は面をかぶって顔を隠しているのが分かった。金属製のその面は、能などで使われるいわゆる般若の面だった。頭の上、左右に角が突き出している。
3人の男たちは目で合図を交わし、左右と後ろから一斉に面の男に襲いかかった。だが、面の男は助走もつけずに上に跳び上がり、4メートルの高さの天井に届くと空中でくるりと上下に体の向きを変え、天井を蹴って3人の男の一人に体当たりして来た。
その黒服の男はひとたまりもなくドアの外の廊下まで弾き飛ばされ、床に転がったまま、動かなくなった。
後方と右側から残った黒服二人が警棒で殴りつける。だが、面の男はプロレスラーのような巨体の男が渾身の力で振り下ろした警棒を両手の甲で簡単に受け止めた。
面の男が両手を横に払うと、黒服二人はあっけなく部屋の隅に飛ばされた。面の男は部屋の奥の壁際に置いてある日本刀に近づいて行く。
面の男は鞘ごと日本刀をつかみ、刀身を半分ほど抜いて中身を確かめる。服のポケットから黒い滑らかな表面の袋を取り出し、それで日本刀をすっぽり包む。
何事もなかったかのように、悠然と日本刀を持って立ち去ろうとする面の男の側で、のびていたように見えた黒服の一人が突然立ち上がり、スタンガンを面の男の首元に押し当てた。
青い火花が小さく散り、バチバチと小刻みな音が続けて響く。人間を即座に失神させられる威力の電撃。
だが、面の男は身じろぎひとつせず、黒服の男の体を右手一本で軽々と持ち上げ、そのまま天井に放り投げた。黒服の体は直接天井に激突し、それから床に落ちて、動かなくなった。
面の男は服の後ろ側のポケットから、金の延べ板を3枚取り出し、それを床に置き、屋敷の廊下に出る。その屋敷の一角は小高い崖に面していた。
高さ5メートルはあるその崖に向かって、面の男は窓ガラスを突き破って、駆け抜け、ひらりと道路に舞い降り、そのまま闇の中に姿を消した。
騒ぎを聞きつけたその屋敷の主である老人は、収納庫の部屋からあの日本刀が無くなっているのに気づき、声を震わせた。
「なんて事だ! 取引が……2億円の取引が……」
屋敷の周囲には、街灯に照らされた人気のない道路に、ただ冷たい北風が吹き渡っているだけだった。
翌日の朝9時、渡と松田は強奪劇の舞台となった豪邸にやって来た。屋敷の周りは警察の規制線のテープで囲まれていたが、渡が見張りに立っている制服警官二人に名前と要件を告げると、テープを上げて中に入るように指示された。
二人が靴の上から覆いになる布をかぶせ、靴を履いたまま玄関から廊下に上がると、鑑識の係員数人の端に宮下が腕組みをして立っていた。
宮下は二人に気づくと、鑑識の邪魔にならないよう少し離れた位置に手招きで誘導する。顔を突き合わせて渡が訊いた。
「一体何の事件なんだ? 強盗事件なら渡研の領分じゃあるまい」
宮下は壊されたドアや突き破られたガラス窓などを指差しながら、昨夜の一連の出来事を二人に説明した。渡が考え事を始めた時の癖で、あごひげをしごきながら言う。
「なるほど。本当だとしたら普通の事件じゃないな。で、その3人の警備員はどうなった」
「命に別状はないそうですが、全員が全治1か月から6週間の重傷です。問題は3人とも、通常の警備員ではなく、格闘の訓練を受けたプロだった事です。うち一人はフランスの傭兵部隊に所属した事まであるとか」
「そこまで厳重な警戒が、あっさり突破されたわけか」
突き破られた廊下のガラス窓を近くでながめていた松田が渡に声をかける。
「渡先生、これは普通の窓ガラスじゃありません。防弾仕様の特殊強化ガラスですよ。陸自の装甲車両にも使われているタイプです。これを体当たりの一撃でぶち破るなんて、人間業じゃないですね」
渡はあごひげをしごき続けながら宮下に言う。
「これがある種の怪奇事件だという事は理解した。渡研に協力依頼が来るはずだな。それで強奪された物にも、何かいわくがあるのかね?」
宮下は素早く周りを見回して、そっと小声になった。
「その辺りの詳しい情報は、渡研の研究室で話しましょう。筒井さんにも既に情報収集を頼んであります」
三人は屋敷を出て、宮下が運転する乗用車で帝都理科大学内の渡の研究室へ向かった。
三人が研究室に入ると既に遠山と筒井がそれぞれの席に座っていた。応接スペースのソファに全員で並んで座り、宮下が今回の事件のあらましを改めて説明した。
「今回強奪されたのは、日本刀です。実はこの2か月の間で既に5件、似たような事件が起きていて、目撃者は全てが人間離れした力と動きを持つ、般若の面を被った男が犯人だと証言しています」
宮下がテーブルの上に、これまでに強奪された物品の写真付きリストを広げた。それをのぞき込んだ渡が首を傾げる。
「仏像、絵巻物、茶道の茶碗、日本人形、そして今回が日本刀……日本の美術品とか工芸品ばかりだな」
宮下がうなずいて言う。
「しかも、全てが本来なら国宝か重要文化財に指定されていてもおかしくなかった、極めて文化価値の高い物ばかりなんです」
遠山が宮下の言い方に眉をピクリと反応させた。
「本来ならと言ったかい? という事は指定されていなかった?」
宮下がうなずき、筒井が手帳を開いて後を続けた。
「文化庁に話を聞きに行ってきました。所有者が存在を文化庁に意図的に知らせないケースが結構あるようですね」
渡が首を傾げて訊く。
「なぜ申請しない? 価値があるというお墨付きになるはずだろう?」
「そうなんですが、重要文化財に指定されると売却などの際に政府への届け出が必要になる場合があります。国宝だと国外への売却はほぼ不可能になりますし、相続税の課税対象にもなりますから、そういうのを嫌って所有者がわざと申請しないケースは思ったより多いみたいですね」
遠山が天井の方へ視線をやってつぶやく。
「相続税か。今回の日本刀はどれぐらいの価値があったんだ?」
筒井が手帳を見ながら答えた。
「もし骨董品市場で売った場合、約2億円の値段がつくそうです」
他の4人が一斉にため息をつく。松田が目を見張ったまま言う。
「自分のような庶民には一生縁のない金額ですね。じゃあ、あの屋敷の所有者は2億円損したわけですか?」
宮下が右の人差し指を自分の額に当てて言う。
「それがおかしな点がもう一つあるんです。犯行現場には必ず、奪われた物品の市場価値とほぼ同額の価値の金塊が置かれているんです。今回の被害者宅にも金の延べ板3枚が残されていました。換金すると約2億円の価値になる量だそうです」
筒井が身を乗り出して宮下に訊いた。
「え? じゃあ、被害者は日本刀を強奪されたけど、金銭的に損はしていない事になるんですか?」
宮下がためらいがちに答える。
「その金の延べ板の素性が分からないので警察が一時保管しますが、まあ、最終的には遺失物扱いという事で、被害者に引き渡されるでしょうね」
渡がまたあごひげをしごきながら言う。
「そうなると強奪と言えるのかどうか、だな。何のためにそんな手の込んだ事をする必要があるんだ?」
宮下が言う。
「もう一つ、共通点が。強奪された物品の全てが、近日中に売却される予定だったという事です。今回の日本刀は、3日後にとある中東産油国の富豪に引き渡される事が決まっていました。いずれの物品も海外への売却の直前に強奪されているわけです」
同じ頃、東京六本木の高層マンションの最上階では、白髪の上品そうな老紳士がスーツに身を包み、窓のない部屋の椅子に座っていた。
ドアとは反対側の壁の一部がすっと横にスライドして開き、中世西洋の舞踏会で使われたような、目の部分だけを覆う仮面をつけた人影が現れた。
妙に小柄なその人影はフード付きの黒いマントを羽織っていて、部屋の中が妙に薄暗い事もあって、年恰好の検討がつかない。さらに口元にボイスチェンジャーを当てて老紳士に話しかけた。
「品物をお確かめ下さい」
その人物が片手を降って合図すると、同じく仮面で目元を隠したメイド服の女性が、細長い箱を運んで来て老紳士の前に置き、蓋を外す。
老紳士が下を見つめると、一本の日本刀が収まっている。老紳士は呼吸を荒げ、手を少し震わせながら日本刀をつかみ、鞘から刀身を抜いて端から端までじっと見つめた。
「ま、間違いない! 私の家に伝わる初代村正じゃ! 一体どうやって取り戻したのですか」
さっきの人影が答える。ボイスチェンジャーを使っているため、くぐもった音になっているが、やや甲高い、女性らしきしゃべり方だった。
「それは教えない約束です。それよりも、今後はしっかりと保管して次代に伝えて下さい。甥御さんにこっそり、二束三文で売り飛ばされたりしないように」
「ははっ!」
老紳士は椅子から立ち上がり、床にひざをついてその小さな人影に深々と頭を下げた。
「何とお礼を言ったらいいか。しかし、本当に何の謝礼も要らないのですか? なぜ無償で、これを取り戻していただけたので?」
人影は答える。
「日本の価値ある文化が、海外に売り渡されるのを見過ごせないだけです。お分かりとは思いますが、私たちの事はくれぐれも口外無用に願いますよ」
「分かっております! 墓場まで持っていく、もとよりその所存です」
「では、品物をお持ち帰り下さい。お帰りの車は手配してあります。では、ごきげんよう」
老紳は日本刀を箱に戻し、その箱を大事そうに抱えて、メイド服の女性にうながされて部屋を出る。ドアをくぐる直前に仮面の小さな人影に向かって、深々とお辞儀をして行った。
老親が部屋を去り、ドアが閉まると、パッと部屋の照明が明るくなった。小さな人影がマントを外して後ろに放り投げ、仮面を外した。
その下から現れたのは、10歳ぐらいろとおぼしき長い黒髪の少女だった。肌の色などは典型的な日本人のそれだが、両目の瞳だけが澄んだ青色。
少女はやはり仮面を外したメイド服の女性に向かって言う。
「やれやれ、毎回この格好するの何とかならないの? これじゃまるで、悪の秘密結社みたい」
メイド服の女性はクスリともせず、真面目な口調で応えた。
「なにぶん会長の姿をそのまま見せるのもどうか、と思いますので」
少女は壁の隠しドアに向かいながら言う。
「それにしても、金に目がくらんで日本の歴史的な財宝を海外に売り飛ばそうとする日本人がこれほどいるのね。ノーヴェル・ルネッサンスだけで今後も全部防ぎきれるかしら?」
それから3日後、警視庁から渡研にある依頼が届いた。研究室で宮下警部補から説明を聞いた他のメンバーは、口々に疑問と不満を口にした。渡が憮然とした顔で言う。
「護衛をしてくれと? うちは警備会社じゃないぞ」
宮下が困り果てた表情で愛想笑いを浮かべて言う。
「もちろん、警察の護衛が付きます。あくまでそれに同行して欲しいという事でして」
松田がテーブルの上に広げられた資料の写真を見つめながら宮下に訊いた。
「これは陶器ですね。値打ちのある物なんですか?」
「室町時代後期に作られた香炉だそうです。当時の中国か朝鮮半島からの輸入品だと思われていたので注目されていなかったんですが、最近の研究で信楽焼(しがらきやき)だと判明しました。つまり国産品だったんです」
遠山も写真を見つめてしきりにうなずく。その掌に乗るほどの大きさの陶器は、赤茶色の滑らかな表面の壺状の胴体と、下部に隙間がある蓋で構成されている。
表面には、元は鮮やかな発色だったのだろう、くすんだ赤、緑、金色の細い帯が描かれている。遠山がつぶやく。
「僕は素人だが、それでも美しい物だというのは分かる。国産品なら確かに日本の貴重な文化財になるだろうね」
筒井が首を傾げながら宮下に訊く。
「羽田空港まで護衛というのは、どういう事なんです?」
「所有者が中国の富豪に売る事になったの。文化庁は止めたんだけど、文化財に指定されていないから、民間の商取引には介入できないそうで」
渡がなおも訊く。
「だったらなぜ警察が護衛する?」
宮下が必死に愛想笑いを浮かべながら答えた。
「例の般若の面の怪人ですよ。現在の所有者が、とある国会議員を通じて、警察の警護を要請してきまして」
「なるほど」
松田が我が意を得たりという表情で言った。
「この陶器の運搬の護衛に付き合えば、その怪人を待ち伏せできるというわけですね」
渡がまだ納得できないという表情で言った。
「とは言え、日本の貴重な文化財を外国に売り飛ばすという話だろう? 私はむしろあの怪人に持って行ってもらいたい」
宮下が愛想笑いをさらに浮かべて渡に懇願した。
「そうおっしゃらずに、渡先生。これ以上あの怪人に好き放題をさせるわけにもいかないでしょう?」
顔をしかめたまま、渡はしぶしぶ依頼を引き受けると言った。
翌日の朝、渡研の5人は宮下が手配したボックスカーに乗って、東京西部の所有者の家を訪ねた。
豪勢な一戸建ての中に入ると、運送会社のスタッフが例の香炉を厳重に箱に梱包し終わったところだった。所有者らしいでっぷりと太った50代ぐらいのスーツ姿の男性が渡たちの側へずかずかと歩いて来た。
「あんたたちが追加の護衛だな? しっかり守ってくれよ。上海に着いて先方が首を縦に振れば、10億円になる商談なんだ。頼むぞ」
男がその場を去ると、筒井が口をとがらせて小声で言った。
「なによ、偉そうに。こっちはボランティアみたいなもんなのよ」
宮下が掌を前に出し、まあまあ、となだめる仕草をしながら言った。
「ここから羽田空港まで運んで、上海行きの便に積み込みます。飛行機が離陸すれば、さすがに怪人でも手出しはできないでしょう。それまであの香炉が奪われないようにするのが、私たちの役目です」
それから運送会社の車を2台の覆面パトカーが前後から挟み込む形で、香炉が運び出された。所有者の男は運送会社の車に同情し、渡研の車は後ろから続く。
北風の強い、今にも雪が降り出しそうな寒空の下、車列は高速道路に入って空港へ向かった。
空港の入り口の一つは既に制服警察官数人が警備しており、車列は地下駐車場に入る。覆面パトカーから降りた私服刑事に囲まれて、所有者の男と運送会社のスタッフが、香炉を入れた箱を運んでいく。
出発ゲートへ向かいながら、渡が小声で言った。
「これなら空港の中に入る事もできまい。一安心だな」
宮下もやや緊張が解けた表情で言った。
「空港の周りは密かに警察が包囲しています。さすがに手出しは出来なかったようですね」
同じころ、空港の管制塔の中では、管制官の一人が電話の受話器を耳にあてながら「はあ?」と大声を上げていた。
「その便なら5分後に着陸予定ですが……機体の上に人がいる? そんな馬鹿な」
それは名古屋からやって来た小型のビジネスジェットだった。操縦席のパイロット、機長と副操縦士は、羽田の管制塔からの無線の内容に、一瞬口をあんぐりと開けた。
機長が馬鹿馬鹿しい、という表情でつぶやく。
「この機の中、じゃなくて、上に人が乗っているだと? 何かの見間違いに決まっているだろう」
副操縦士も笑いを含んだ口調で言う。
「いくら小型と言ってもジェット機ですからね。もし名古屋で取り付いたとしても、とっくに振り落とされているはずですよ、人間なら」
ビジネスジェットは指定された滑走路に無事着陸し、ハンガーまで機体を牽引する特殊車両が近づいて来た。奇妙な通報があったため、セダン型の警備員の車も近づいて来た。
計器の点検を終えたところで、副操縦士が窓の外を見て悲鳴を上げた。
「うわ、何だ!」
機長も息を呑んだ。オートバイのレーシングスーツの様な真っ黒な服を着た人影が、操縦室の窓伝いに機首に降り立つのが見えたからだった。
警備員が二人、車から飛び出してその人影を制止すようとする。人影が振り向くと、顔は金属製の般若の面で隠れていた。
その怪人は飛び掛かった警備員二人を軽々と数メートル先まで投げ飛ばし、警備員が乗って来た車に乗り込み、国際線ターミナルに向かって全速力で向かった。
車が滑走路を突っ切って疾走したため、離陸を待っている飛行機が待機する場所は大混乱に陥った。かまう事無く怪人は車を走らせて国際線ターミナルビルの横に停まり、般若の面の怪人は車を降り、車の天井に跳び上がり、そこからさらにターミナルビルの窓に向かって、10メートル以上跳び上がった。
荷物の受け付けをしていた、香炉の所有者の男と、警官の一団、渡研の面々のいる場所の、そばの窓ガラスがけたたましい音とともに砕け散った。
今まさに、航空会社のスタッフが香炉の入った箱を受け取ろうとしているところへ、外から窓を突き破って、般若の面の怪人が飛び込んで来た。
箱をカウンターの上に置いたまま、航空会社のスタッフたちは奥へ引っ込む。その場の全員が茫然としている中、般若の面の怪人は素早く箱が置いてあるカウンターに駆け寄る。
直前で松田が立ちふさがった。松田がコートを脱ぎ捨てる。その下は陸上自衛隊の野戦服だった。ボクシングのようなポーズを取り、松田は怪人に向かって足を踏み出す。
怪人は特に身構える事もなく、すたすたとカウンターに向かって歩く。松田が身を低くしてラグビーのタックルの要領で怪人の腰に体当たりした。
怪人の体はびくともしなかった。身長186センチ、筋骨隆々の松田が顔を真っ赤にして全力で押し戻そうとするが、怪人の体はじわじわとカウンターに近づいて行く。
松田が隙を見て、下から右手を突き上げ、怪人の面を剥いだ。30代前半ぐらいと思われる男の顔が一瞬見えた。松田が愕然とした表情でつぶやく。
「その顔は……柳選手?」
松田の体の緊張が一瞬緩んだ。怪人の両手が松田の体をつかみ、軽々と引っぺがして、宙に放り投げる。松田の体は完全に宙に浮き、10メートル先の床に叩きつけられた。
怪人は面を付け直し、床に倒れてうめいている松田には目もくれず、カウンターのたどり着いて香炉の入った箱を手でつかんだ。
箱を手に持ったまま、所有者の男に歩み寄る。恐怖で腰を抜かして床に座り込んだ所有者の前に立つと、怪人は腰の後ろのポケットから金の延べ棒を取り出した。
怪人は金の延べ棒を前に放り出す。ゴトリという音を立てて、延べ棒は所有者の男の股間のすぐ前に落ち、所有者の男は「ヒッ!」と悲鳴を上げた。
そして怪人は箱を持ったまま、ターミナルビルの外へ向かって走り出した。
宮下が拳銃を手に構えて後を追って走る。
待合室などのスペースを通り抜け、怪人は軽々と走り去って行く。宮下も全力疾走するが、みるみる距離をあけられてしまう。
ターミナルビルの外へ飛び出し道路を見渡すが、怪人の姿は完全に宮下の視界から消え去っていた。宮下は拳銃を脇のホルスターにしまいながら、息を切らしてつぶやいた。
「あれは人間じゃない。生身の人間にこんな事が可能なはずはないわ」
それから3日後、宮下に警視庁公安機動捜査隊から呼び出しがかかった。隊長室で話を聞かされた宮下は困惑の声を上げた。
「誘拐なら捜査1課の担当でしょう? どうして公安に? それも渡研にまで協力要請とは、どういう事ですか?」
隊長は3枚の写真のプリントを机の上に並べた。理知的な印象の中年の男性、10代半ばぐらいの少年、それよりやや年下の少女がそれぞれ映っている。隊長が重々しい口調で言う。
「誘拐されたのはその少年と少女。その男性は彼らの父親だ。誘拐発生が分かったのはその子たちの母親が所轄に連絡してきたからなんだが、父親は警察に通報する事を拒んでいた」
宮下はあきれた顔で腕組みをした。
「それは誘拐犯の常套句でしょうに。今どき真に受ける人がいるんですか」
「そう単純な話でもない。その男性は兵頭教授、国立サイバネティクス研究機構の研究者だ」
「単なる営利目的の誘拐ではないと?」
「所轄の刑事が説得してようやく本当の事情を聞きだした。兵頭教授の研究成果をよこせと犯人は要求してきたそうだ。子どもたちの命と引き換えにな」
「研究成果というのは?」
「人工筋肉の研究だ。筋肉が萎縮する病気、たとえば筋ジストロフィーなどの治療が当初の目的だったが、動物実験の結果、脊椎動物の身体能力を飛躍的に強化できる可能性がある事が分かった。数十倍のレベルにな」
宮下は座っていた椅子から飛び上がり、隊長の机の上に身を乗り出した。
「連続文化財強奪事件の、あの怪人と関係があると?」
隊長は掌を前に突き出して、宮下に落ち着けと伝える仕草を見せた。
「現時点でそれは分からん。兵頭教授が所属しているのは国立の研究機関だ。人体実験をやっているはずはない。考えられるとすれば、あの怪人の話を嗅ぎつけたテロリスト組織が同じ強化改造人間を作り出すために教授からデータを手に入れようとしている、そんなところだな」
宮下は椅子に座り直し、頭を整理しながら言う。
「確かに、それなら渡先生たちの協力が必要になる場面があるかもしれませんね。分かりました、渡研には私から説明します」
隊長室を出て一度、自分のデスクに寄る。隣席の同僚が宮下に声をかけた。
「さっき生活安全課から封筒が届いたぞ。なんとか言うスポーツ選手の資料だそうだが」
「あ、これですね。ありがとうございます」
宮下は大判の封筒をトートバッグに入れ、渡研の研究室へ向かった。
研究室に全員集まり、応接スペースのテーブルに並んで座って、渡たちは宮下の説明を聞いた。遠山がしきりに感心した口調で言う。
「その話なら聞いた事がある。僕の専門じゃないけど、マウスが檻を突き破って逃げ出して大騒ぎになったとか。確かに人間にあれを移植したら、あの超人的な肉体能力を持たせられるかもしれない」
宮下が訊く。
「ですが、兵頭教授は人間に移植した事はないと言っているそうです。動物実験でもまだ安全性が確認されていないと」
遠山がうなずきながら言う。
「僕が聞いている話では、移植後の人工筋肉の寿命が短か過ぎるんだそうだ。マウスだと半年で人工筋肉が機能不全を起こして死んでしまうらしい」
渡があごひげをしごきながら言う。
「兵頭教授があずかり知らない所で、こっそり人体実験をやった連中がいるのかもしれんな。国際的なテロリスト集団なら可能かもしれん。いずれにしても明日にでも兵頭教授と話をしてみたい」
宮下は深くうなずいて、トートバッグからあの封筒を取り出し、松田に向かって言った。
「松田さん、例のプロ野球選手の件、調べてもらいました。この人物に間違いない? 松田さんが見た、あの怪人の仮面の下の顔は」
宮下が封筒から書類と一緒に取り出した写真を見て、松田は大きくうなずいた。
「はい、自分が見たのは、まさにこの顔でした。柳健太郎さんです。こう見えて自分は元野球少年でして。高校時代は野球部で、まあ最後まで県大会準優勝止まりで甲子園には行けなかったんですが。その頃のあこがれの選手でした」
筒井が遠慮がちに口をはさむ。
「うちの社の運動部にも聞いてみました。球団でのポジションは一塁手、一時は毎年、ホームラン王まであと一歩という期待の若手だったそうですね」
松田は子供のように目を輝かせながら興奮気味にまくし立てた。
「いや、もうあの頃はすごかったですよ。なんたってホームランの実に4割が場外まで飛んだんですから。3年前の、あのケガさえなければ」
筒井が手帳を見ながら言う。
「走塁中に相手チームの野手と衝突して右足を骨折。シーズン後に自由契約になって、その後いろんなチームのセレクションを受けるも体調が元に戻っていなくて全て不合格。そのまま話題に上らなくなって忘れ去られたみたいですね」
宮下が封筒から取り出した書類を読みながら言う。
「2年ほど前から所在不明のようです。と言っても、住所地の役所には転出届を出しているし、住んでいた賃貸マンションも契約解除をちゃんとしていますから、行方不明になったというわけではなさそうね。ただ……」
松田が身を乗り出して宮下に尋ねる。
「ただ、何です? 何か不審な点でも?」
宮下は小首をかしげて答える。
「不審という程でもないんだけど、いなくなる直前に親しい友人たちに、元の体を取り戻せるかもしれないと話していたそうです。渡先生、遠山先生」
宮下は二人に顔を向けて訊く。
「元々優れた身体能力を持っていた人物にその人工筋肉を移植する、そういう誘いを受けたという可能性は?」
遠山が答える。
「非合法な人体実験をためらわない連中がいたとすれば、あり得るな。そして成功したとすれば、あんな超人的な身体能力を持つ怪人になったとしても不思議はない」
「やれやれ」
渡が大きくため息をつきながら言った。
「私が子どもの頃の特撮テレビドラマとかには、そんな設定の番組がたくさんあった。そんな事が現実に起きる時代になったとはな」
兵頭教授の自宅は犯人に監視されている可能性があるので、渡たちは教授の自宅に近いホテルの部屋で兵頭夫婦と面会した。
専門的な話は遠山でないと理解できない可能性が高いので、遠山と宮下が兵頭教授と一室で事情を聞き、渡、松田、筒井は隣の部屋で兵頭夫人から話を聞いた。
夫人は居ても立ってもいられないという泣き出しそうな顔で、3人の質問に言葉を詰まらせながら話した。
「上の博はもうすぐ高校受験なんですが、夫は自分の後を継いで医者になれと言ってたんです。息子はIT系の道に進みたいと言って聞かなくて、もう毎日親子で言い争いをしてました」
渡が紙コップのお茶をすすりながら、さりげない風を装ってさらに訊く。
「ご主人は警察に通報するなとおっしゃったそうですね」
夫人はうんうんと大きくうなずきながら答えた。
「そうなんですよ! 他に当てがあるとか、訳の分からない事を言って。息子の帰りが遅いのは、主人との言い争いが原因かと思ってそれほど心配していなかたんですが、下の娘までが深夜になっても帰って来ないので、さすがに主人を問い詰めたら、誘拐されたと。もう、一体何を考えているんだか、あの人は!」
渡が夫人に同意の意思を示すように大きくうなずきながら言う。
「私も国立大の学者ですので、噂を聞いた事があるのですが、ご主人は一時、米国の大学からスカウトを受けていたそうですね。給与も研究環境も破格の待遇だと聞きましたが、結局断られたとか」
「はい、そういう事がありましたねえ。あの頃は国内では十分な研究予算が与えられなくて、主人も迷ったようですが、運よく莫大な研究資金を提供してくれた所がありまして」
「ほう! それは初耳だ。もし差し支えなければ、その資金提供者の事を教えていただけませんか」
「ちょっとお待ちくださいね。私もその財団の方から名刺を頂戴してたはずなので」
夫人はハンドバッグの中をしばらくごそごそと引っ掻き回し、やがて一枚の名刺を探し当てた。取り出して渡に手渡す。
「なんとも舌を噛みそうな名前の財団法人とかで」
渡は名刺を見ながらその名前を声に出して読み上げる。
「エクナシアナー・レヴォン科学振興基金? 聞いた事もないな。筒井君、君は聞き覚えがあるか?」
渡が名刺を筒井に渡す。筒井も首を傾げた。
「ううん、見た事も聞いた事もないですね。あ、すいません」
それまでなんとなくもじもじとしていた筒井が椅子から立ち上がった。
「ちょっとお手洗いに」
そのままトイレに駆け込んでいく。
「今日はまた冷えるなあ。あたし冷え性だから近くなっちゃうんだよね」
そう独り言を言いながら用を足し、洗面台で手を洗った。濡れた手を拭こうとスーツの上着のポケットからハンカチを取り出すと、一緒にさっきの名刺が出て来て床に落ちそうになった。
「おっと! いけない、これ持って来ちゃった。濡れてないかな」
筒井が両手で名刺の端を持って顔の前にかざす。ふと鏡に目をやった筒井は、大声を上げそうになって、あわてて声を飲み込んだ。急いで名刺をスマホのカメラで撮影し、渡たちがいる部屋に戻り、名刺を夫人に返す。
結局警察がこれまでに聞き出した内容以上の話は出ないまま、兵頭夫妻との面談は終わった。夫妻を送り出した所で、筒井が他の4人を呼び集めた。
「さっき偶然鏡に映った時、気がついたんです」
スマホで撮影した、夫人が持っていた名刺の写真を見せる。そして筒井は部屋に備え付けのメモ用紙でボールペンで何かを書き始めた。
「カタカナの下にアルファベット表記がありますよね、財団の名前の。それを逆に並べると」
スマホの写真の名刺には「Ecnassianer Levon」という表記があった。筒井がメモ用紙に書いたアルファベットの文字列はこうなった。Novel Renaissance。
渡たちが一斉に「アッ!」と声を上げた。渡がメモ用紙を見つめてつぶやいた。
「ノーヴェル・ルネッサンス……兵頭教授の研究資金の出どころは、これか!」
同じころ、六本木のタワーマンションの最上階、ノーヴェル・ルネッサンスの本部。目の周りを装飾されたマスクで隠した、あの青い瞳の少女が般若の面の男と向かい合って立っていた。
般若の面の男の背後で、黒いスーツの別の男が立ったまま少女に向かって説明をしていた。
「誘拐犯の潜伏場所が特定できました。秩父山地の麓です。人数は10人。銃で武装していると推測されますが、まあ拳銃程度でしょう」
少女が平然とした口調で訊く。
「それでそいつらの身元は?」
「中東を拠点とする宗教的過激派です。不法入国のテロリストたちですので、こちらの素性を探られる心配はないかと」
目元を仮面で隠したメイド服姿の年長の女性が少女に耳打ちした。
「兵頭教授の奥様が警察に通報してしまったようです。いかがしましょう?」
「あらら。まあそっちは好きにさせて。教授のお子さんたちを救出できるなら、別に警察でもいいし。日本の宝になる科学者の頭脳流出を食い止めたと思ったら、こんな事に巻き込まれるなんてね。兵頭教授が直接あたしたちに助けを求めて来たんだから、何としてもお子さんたちは無傷で救出するのよ」
般若の面の男はまっすぐ立ったまま、一言も発さずにいた。少女は眉をしかめて般若の面の男のすぐ前まで歩み寄り、自分の仮面をはずした。まだあどけない顔つきが露わになる。だが般若の面の男は微動だにしない。少女がややきつい口調で般若の面の男に言う。
「あたしの顔を見て驚かないの?」
般若の男は無言で首を横に振る。少女はさらにきつい口調で彼に命じる。
「その面を取ってそこに膝をつきなさい。頭を見せて」
男はすぐに般若の面を外した。元プロ野球選手、柳の顔がそこにあった。そのまま少女の前でひざまずいた姿勢を取る。少女が柳の前髪をかき上げると、長い傷跡が数本、額に残っていた。少女の声が怒りを含む。
「話が違うじゃん」
後ろの黒いスーツの男が静かな口調で少女に問う。
「何か問題ですか、会長? 他の手段を探せとおっしゃるなら、時間はありますが」
少女は少し考えて黒いスーツの男に言った。
「いえ、万一の事を考えて今すぐに動いて。奪還作戦は予定通りに」
少女は柳に向き直って命じた。
「ここから先の事は彼の指示に従って。行きなさい」
柳は無言でうなずき、表情という物が全くない顔つきで立ち上がり、般若の面を付け直し、黒いスーツの男の後に続いて部屋を出て行った。
少女はメイド服の女性に鋭い口調で命じた。
「中東支部長とテレビ会議システムで話をする。用意して、今すぐ!」
約10分後、少女は窓のない部屋で大きな液晶スクリーンの前で椅子に座っていた。画面に光が灯り、アラブ人とおぼしき外見の、10歳ぐらいの男の子の姿がそこに現れた。彼はアラビア語で少女に話しかけた。
「やあ、ヒミコ。久しぶりだね、急用かい?」
ヒミコと呼ばれた少女はきっとした顔つきと目つきで、日本語で答える。
「強化改造人間計画に脳改造による洗脳は含まれていないはずよ。どういう事?」
「何だって? あのヤナギという日本人の事を言ってるのかい?」
少年はアラビア語で返答する。通訳も字幕も介さず、二人はお互いの言語を完璧に理解しているようだった。
「そうよ。あたしが直接確認した。あれは脳改造手術の痕に間違いない。あれじゃロボットと同じ。本人の意思を無視するなと厳命したはずだけど」
「分かった。こちらに何か手違いがあったようだ。少し時間が欲しい。大至急調べる」
「事情が判明したらすぐに知らせなさい」
少女が椅子のひじ掛けのスイッチを押すと、画面は消えた。
山の麓の雪に覆われた場所に、ポツンと瀟洒な造りの一軒家があった。その食料庫として使われていたらしい地下室に、15歳の少年と12歳の少女が閉じ込められていた。
地下室なので窓は一切なく、地上へ出るには天井の扉まで梯子で上がるしかないが、梯子は引き上げられていて、扉はしっかりと閉ざされている。
二人はそれぞれ毛布にくるまり、寒さに耐えていた。床の隅には菓子パンの袋と空になったペットボトルがいくつも転がっていた。
毛布から顔だけ出して少女が少年に言う。
「お兄ちゃん、寒いよ」
少年は同じく寒さに震えていたが、必死に妹を元気づけようとする。
「がんばれ,里香。きっともうすぐ警察が助けに来てくれる」
建物をぐるりと囲む高い塀の入り口には、浅黒い肌の男が二人、見張りに立っていた。人気がない場所であるのをいい事に、手にした拳銃を隠そうともしていない。
よく晴れた午前中の時間だった。日差しは明るいが、寒さはきびしい。皮の手袋をはめた両手をしきりにこすり合わせている。
そのすぐ側でカンカンと甲高い音が数度響いた。男たちが拳銃を構えて、音がした場所へ向かう。そこには空の缶コーヒーも缶が転がっていた。
男たちが背中合わせになってやや腰を落とし、拳銃を胸元で構えたまま周囲を見回す。彼らから10メートルほど離れた場所に大きな木がある。
その木の5メートルほどの高さにある枝の上で人影が立ち上がった。それは般若の面をつけた柳だった。柳はその枝を足で蹴り、一直線に見張りの男たちに向かって飛んだ。
視界の外から弾丸のように飛び込んで来た柳をかわす暇もなく、体当たりされた二人の男は地面に転がる。
何語か分からない外国語で悪態をつきながら、地面に転がった男たちはその姿勢のまま拳銃の銃口を柳に向けた。だが、次の瞬間、柳の姿がまた彼らの視界から突然消えた。
柳は身をかがめ、倒れている男たちの頭の方向へすさまじいスピードで移動した。両手の拳を、男たちが拳銃を握っている手の上にそれぞれ叩き下ろす。
ばきっと音がして、見張りの男たちがけたたましい悲鳴を上げた。柳は二人から拳銃を取り上げ、分厚い手袋の両手に一丁ずつ持ち、そのまま拳銃を握りつぶした。
金属が歪む音が掌の中から漏れ、銃身が少し折れ曲がった拳銃が地面に落ちる。這って逃げようとする二人の男に柳は手刀の一閃をそれぞれの首の後ろに浴びせ、失神させた。
柳はまっすぐ塀の入り口を抜け、建物のドアに手をかけた。施錠されているので、両腕をたたきつけドアごと内側に倒す。
物音に気付いた人3人の男たちが拳銃をかまえて廊下に飛び出して来た。柳はまっすぐ前に疾走し、壁の上を横向きになって走り男たちに次々と襲いかかった。
3人を失神させるまで3秒とかからなかった。それから大きなキッチンへ行き、高さ1メートルはある金属製の金庫を片手で軽々とどかす。その下に四角い継ぎ目のあるスペースがあった。
継ぎ目のくぼんだ所に指をかけ、上に引きあげる。そこは地下室への入り口だった。閉じ込められていた兄妹がぎょっとして体を寄せ合い、下から柳を見つめた。
柳は木製の梯子を見つけ、それを地下室に降ろし、兄妹に上がって来るようにと手招きした。
二人は毛布を体から剥ぎ取り、おそるおそる梯子を上った。少年は詰襟の学生服、妹の里香も学校帰りの服装のままらしく、ジャンパースカートにカーディガンを羽織っているだけだ。
少年の方が震える声で柳に言う。
「おじさんは誰? あいつらの仲間じゃないの?」
柳は抑揚のない、ロボットのような口調で答えた。
「キミタチ、タスケル。ソレ、ヤクメ。イッショニ、クル」
柳が二人を連れて外へ出ると、上空にブーンという音が響いた。20メートルほど真上にマルチローターのドローンが浮かんでいた。
柳の上着のポケットの中の通信機が鳴る。柳が取り出して耳にあてると、ノーヴェル・ルネッサンスの本部にいた黒いスーツの男の声がした。
「柳、他に仲間がいた。ドローンの監視を振り切って子どもたちを連れて人里まで行け。今合流するのは危険だ」
柳は通信を切り、足元の地面に転がっている拳大の石を拾う。それをはるか上空のドローンに向かって投げた。空気を切り裂く音がして、ドローンが空中で破裂し落下して行った。
柳は少年と妹をそれぞれ脇に抱え、近くの森に向かって駆けだした。抱えられている二人が恐怖で声を上げる。
小さいとは言え、人間二人を抱えているとは思えない猛スピードで森の中を駆け抜ける。やがて幅5メートルほどの谷が見えた。両側は数十メートルの深さがある崖になっていて、その底は沢になって水が流れている。
柳がまったくスピードを落とさず崖に向かって走る。少年の方が引きつった声で柳に叫ぶ。
「おじさん、無理だ。落ちる!」
柳は意に介さず崖から飛んだ。抱えられている二人は手で目を覆う。軽い衝撃の後二人がおそるおそる目を開けると、5メートルもの空間を飛び越して反対側の崖の上にいた。
柳は二人を脇に抱えたまま、時速40キロのスピードでさらに森の中を駆け抜けて行った。
やがて舗装された道路に出た。少年が柳に体を降ろしてくれと頼んだ。柳が二人を地面に降ろし、町がある方向を指差す。三人で歩きながら、少年が柳の顔を見上げながら訊いた。
「おじさんは警察? あ、僕は兵頭博。こっちは妹の里香」
柳は博の顔を見たが返事はせず、二人の背中を後ろから手で押しながら歩き出した。気温に比べて薄着な博と里香はたちまち震えだした。
30分ほど歩くと小さな店が見えて来た。急いで前にたどり着くが、入り口は鉄の格子状のシャッターで閉ざされ、「冬季中営業休止」の張り紙があった。
隙間から中をうかがうと、田舎の何でも屋といった感じで、防寒ジャンパーらしき物もあった。博が舌打ちする。
「ダメだ。あれが手に入れば寒さもしのげるのに」
それを聞いた柳が、やおら鉄のシャッターに手をかけ左右に押し広げた。何かがバキっと音を立てて壊れた。ガラス戸も同じように力ずくで押し開く。
中に入った博と里香は商品棚を手でかきわけ、防寒ジャンパーを一着ずつ手に取った。電話を探すが、取り外してあるらしく、どこにも見当たらない。
柳がライダースーツのような黒い服の腰のポケットから金の延べ板を取り出し、レジの上に置いた。そして二人に言う。
「コレデイイ。モッテイケ」
それから3人はほとんど無言でさらに1時間ほど道路を歩いた。やがて家屋がちらほら見え始めたが、どの家も無人で、しかも相当長期間放置されているようで、荒れ果てていた。
里香が歩きつかれたと言うので、家の間の空き地で休憩する事にした。博が空き地の隅に転がっている野球のボールに気づいて手に取る。
里香が地面に座り込んで柳に訊く。
「ねえ、おじさんの名前まだ聞いてなかったよね。何て言うの?」
柳は少し首を傾げた。
「ナマエ? オレノ、ナマエ? ワカラナイ」
柳の返事に当惑しながらも、博がボールを柳に見せた。
「キャッチボールでもしようよ。動けば体が温まるかも。おじさん、野球はやった事あるでしょ?」
柳の反応に変化が生じた。全身がびくりと震え、何かを必死で思い出そうとしているかのように首をひねった。
「ヤキュウ……ヤキュウ」
かまわず博がボールを柳に向かって放る。柳が右手でそれをキャッチする。柳がそのまま立ち尽くしているので博がじれて柳に言う。
「どうしたんだよ。投げ返すんだよ」
柳は戸惑っている様子で、しかし野球の投球のフォームを取りボールを投げた。ボールは博のはるか横にずれた位置へ飛んだ。
空気を裂く音がして、博の髪が舞い上がった。ボールが一瞬消えたように見えた。ボールは弾丸のような速さで奥のブロック塀に当たり、そのまま破裂して破片になって飛び散った。
ボールが当たったブロック塀の一部が鈍い音を立てて、反対側に崩れ落ちる。博も里香も驚愕して息を呑んだ。
柳は両手の手袋を外し、自分の拳と掌を見つめた。相変わらず抑揚はないが、戸惑った口調で独り言を言う。
「ドウナッテイル? オレノカラダナノカ?」
側に駆け寄った博が柳の両手を見てまた驚きの声を上げた。
「うわ、すごい数の傷跡。何かの手術の痕?」
柳は返事をせずじっと自分の手を見つめ続けている。その時、遠くから数台の車が走る音が聞こえて来た。こちらへ近づいている。
柳は再び二人を脇に抱え、少し離れた倉庫に向かって走り出した。
黒いバンが2台、柳田たちを見つけて近づいて来る。柳は倉庫の一角の扉のある空間に博と里香を押し込んだ。
「おじさん! どうするの?」
博が叫んだ。柳は抑揚のない口調に戻って答える。
「ココニイル。アンゼン」
柳は観音開きの鉄の扉を閉め、側にあった太い木の角材をかんぬきがわりにドアの二つの取っ手に差し込んで開かないようにした。
バンが停まり、中からヘルメット、防護服、透明な強化プラスチックの盾で身を固めた男たちが計8人飛び出して来た。うち数人は自動小銃を持っている。
柳は目にも止まらぬ速さで男たちに向かって突進し、直前で宙に跳び上がった。突然相手が視界から消えたため、戸惑う男たちの最後列にいた自動小銃を持つ一人に柳は上から襲いかかった。
手刀で右肩を一閃すると、その男は悲鳴を上げて崩れ落ちる。右腕がだらりとあり得ないほどの位置まで垂れ下がる。肩の関節が砕けたようだった。
他の男たちはただちに散会し、柳をぐるりと取り囲む陣形を取る。だがすぐに発砲はしない。
その場に遅れてワンボックスカーが滑り込んで来た。柳と武装した男たちがにらみ合っているため、閉ざされた扉を博が内側から叩いて叫んでいる声が聞こえて来た。
「おじさん! 大丈夫ですか? 無理しないで」
ワンボックスカーの扉が開き、大柄な人影が飛び出した。それは松田だった。車の中から外をうかがうのは渡研の面々。松田は柳たちがいる場所をぐるりと大回りして避け、倉庫の扉に向けて走った。
それに気づいた柳がまっすぐ目の前の男に向かって進む。突き出された強化プラスチックの盾は柳の拳に突き破られ、その男の顔面に拳が当たり、その顔が血まみれになった。
柳は5メートルの高さまで宙に跳び上がり、扉の前にたどり着いている松田の背後に迫る。松田は扉をかんぬき状に閉ざしている角材を引き抜きながら中の子どもたちに声をかけた。
「博君と里香さんか? 下がって。今助ける」
松田のすぐ後ろにたどり着き、背後から拳を突き出していた柳の手がぴたりと止まった。気配に気づいた松田が振り向く。松田の目と、般若の面の穴からのぞく柳の目が合う。柳が言う。
「ソノコタチ。タスケル。オマエ、タスケル?」
「そうだ、自分たちもこの子たちを助けに来たんだ。あそこにいるのは警察の特殊部隊だ、敵じゃない!」
柳は振り返る。警察の特殊部隊のうち、二人が柳に襲われて重傷を負い、地面に倒れてうめいている。周りの隊員たちが必死で応急手当をしている。
「おい、しっかりしろ。ダメだ、出血が止まらない」
「大至急救急ヘリを! 応急処置じゃどうにもならん!」
柳はその光景を見つめながらよろよろとした足取りで隊員たちの方に歩いた。歩きながら自分の手を見る。さっき殴り倒した隊員の血で、その手は赤く染まっていた。
自動小銃を持った隊員が柳が近づいて来るのに気づき、銃口を向けて叫んだ。
「止まれ! 今度は撃つぞ!」
柳は止まらず、その隊員の目の前に立つ。左手で銃口の先をつかみ、自分の頭に押し当てた。右手を胸の高さに上げ、人差し指を内向きにくいくいと何度も動かす。引き金を引け、とうながした。
その隊員が戸惑っていると、松田が開いた扉から博と里香が走って来た。里香が隊員に叫ぶ。
「だめ! 撃っちゃだめ!」
博が柳の腰に抱きつき叫んだ。
「殺さないで! このおじさんは悪い奴じゃない。僕たちを誘拐犯から助けてくれたんだ!」
里香が柳の右手をつかんで叫んだ。
「大丈夫よ、おじさん。あたしたちのお父さんは科学者で医者なの。きっと何とかしてくれる」
博も柳の体を後ろに引きながら叫ぶ。
「そうだよ、何かの手術でそんな体になったんなら、お父さんが元に戻してくれる。だから死のうとしちゃだめだよ!」
柳は銃口から左手を離して振り向く。ゆっくりと般若の面を外し、傷跡だらけの顔をさらした。無表情だったその顔に、かすかに穏やかな笑みが浮かんだ。
柳は左手を博の肩に置き、右手で里香の頭を撫でた。その直後、柳の全身がびくりと痙攣し、全身ががたがたと震え始めた。そのまま柳の体は仰向けにばたりと倒れた。
倒れた後も柳の体は大きくビクビクと波打った。松田が駆け寄って柳の体を抱き起こす。松田はワンボックスカーに向かって叫んだ。
「遠山先生!」
車から遠山が脇に機械を抱えて走り出して来た。柳の体の肌が露出した部分、首筋と手首に聴診器のような器具を当てる。その先は箱型の機械にコードでつながっている。
松田が尋ねる前に遠山が説明した。
「兵頭教授から借りて来た。人工筋肉の生体電流を計測する装置だ」
柳の体を地面に横たえ、遠山が計測器の数値表示を見つめる。そして呆然とした声でつぶやいた。
「生体電流が流れていない。人工筋肉の寿命が尽きたんだ。人間に移植するとこんなに早くダメになる物なのか」
柳の体の痙攣が止まり、その目が閉じる。突然松田が右腕を小刻みに胸の前で振りながら怒鳴り始めた。
「かっ飛ばせ! やなぎ! かっ飛ばせ、やなぎ!」
驚いて松田を見つめる博と里香に松田は言う。
「この人は元プロ野球選手なんだ。こうやって呼びかければ、意識を保てるかもしれない」
博はすぐにその意味を察して自分も大声で柳に向かって呼びかける。
「かっ飛ばせ、やなぎ! かっ飛ばせ、やなぎ!」
里香も両手を叩いてリズムを取りながら呼びかける。
「かっ飛ばせ、やなぎ!」
やがて柳の両目がかっと見開かれた。柳の右手がゆっくりと持ち上がり、宙にある何かをつかもうとするかのように伸ばされる。
柳の顔に晴れ晴れとした笑顔が浮かんだ。だがその目に映っているのは現実の光景ではなかった。
柳は真夏の陽光が降り注ぐスタジアムのベンチからバットを持って、グラウンドへ足を踏み出す。スタンドから球場全体を揺るがすような大音響の声援が柳に浴びせられる。
「かっ飛ばせ! やなぎ! かっ飛ばせ! やなぎ! わあああああ!」
柳は全身を声援に包まれて、まばゆい光の渦に向かって堂々と歩いて行く。
現実世界の柳は明るい笑顔を浮かべたまま、力尽きていた。天に向かって突き出されていた右手がパタリと地面に落ちた。松田が遠山に切羽詰まった口調で言う。
「遠山先生、何か方法は?」
遠山は無言で首を左右に振った。松田はそっと、見開いたままの柳のまぶたを掌で閉じた。
翌日、ノーヴェル・ルネッサンスの本部で、青い瞳の少女ヒミコは大スクリーン越しに中東支部のアラブ人少年と話していた。彼がアラビア語で話を切り出す。
「すまなかった、ヒミコ。やはりこちらに手抜かりがあった。こいつだ」
スクリーンの端から怯え切った表情の初老のアラブ人男性が屈強な覆面姿の男二人に首筋をつかまれて突き出される。少年が続ける。
「金に目がくらんで人工筋肉のサンプルをブラックマーケットに流したんだ。あのヤナギという日本人はその完成見本として後で売り飛ばすつもりだったようだ。それで洗脳のための手術をしたんだな」
ヒミコが日本語でさらに尋ねる。
「横流しされたサンプルの回収は?」
「すまない、既に買われた後だった。どこかの国の軍に渡ったかもしれない」
「その男を処分して。今すぐ。あたしが見ている前で」
「分かった」
少年が男たちに命令し、初老の男が画面の中央に押し出され、その後頭部に拳銃が押し当てられた。何かを叫ぶ初老の男の頭に立て続けには3発銃弾が撃ち込まれ、血しぶきが上がった。
男の死体が画面から消えると、ヒミコは大きくため息をついてスクリーンの中の少年に向かって、アラビア語で話しかけた。
「やっぱり大人はだめね。あたしたちの理想なんて理解できない奴らばっかり」
少年は流ちょうな日本語で答えた。
「今回の事は全面的に中東支部の失態だ。おわびのしようがない」
ヒミコがアラビア語で答える。
「現場の事は大人にやってもらわないといけないから、仕方ない。ジレンマね。だから、ひとつ貸しにするよ。で、さっそく貸しを返してもらえる? 調べて欲しい事があるんだ」
次の日曜日の午後、渡は自宅からやや離れた河川敷をジョギングし、コンビニでカップの日本酒を買って河原に座り、ちびちびと飲み始めた。
冬とは言え日差しが温かい日だった。トレパン姿で真昼間の酒を楽しんでいる渡の真上の道路に、全長8メートルはある黒塗りのリムジンが停車した。
場違いに豪華な車を渡が珍しそうにながめていると、ドアが開き、まず黒いロングスカートのメイド服を着た女性が出て来た。彼女は昔のヨーロッパの貴族の舞踏会で使ったような仮面で目元をかくしている。
彼女がうやうやしくもう一つのドアを開けると、ワンピースの上に子ども用のダッフルコートを羽織った少女が降りて来た。少女も似たような仮面をつけている。
仮面の目の穴から見える両の瞳は青い。10歳ぐらいとおぼしき体つきの少女だった。ヒミコだ。ヒミコはまっすぐに河原の斜面をおり、渡の横へ歩いて来た。やおら渡に話しかける。
「あら、こんな明るいうちからお酒? 体に悪いんじゃなくて?」
渡は困惑した表情で、それでも答える。
「運動した後の一杯だよ、これが楽しみでね。で、私に何か用かね?」
「一言お礼をと思ってね。柳健太郎さんの事ではお世話をかけたから」
酒のカップを持つ渡の手がぴたりと止まる。渡はゆっくりと彼女に尋ねる。
「お嬢ちゃん、君は何者だ?」
「ノーヴェル・ルネッサンスを代表する者とだけ言っておくわ。渡のおじ様にだけは、あたしたちの真意を知っておいてもらいたいの」
「真意? 君たちの組織の目的という事か?」
「多分誤解されていると思うけど、あたしたちの目的は人類社会の混乱や破壊じゃない。これからの気候変動でどうすれば人類が生き残れるか、そのための実験を重ねる事だよ」
「ほう、大きく出たな。お嬢ちゃんが人類の救世主になるつもりか?」
「人類を全員一人残らず救うなんて不可能よ。生き残る価値のある人間を救うだけ。そのために自然のバランスを回復させる可能性があれば、先輩たちを現代に蘇らせる事もあるの」
「先輩たち?」
「新生代の生物たち。恐竜が絶滅して、その陰でひっそり生きて来た哺乳類が爆発的な進化を遂げた。あたしたち人類はその末裔であり、現時点でのチャンピオンでしょ? でも生き残った種も絶滅した種もある。その違いは何だったのか? これから人類が気候変動の時代を生き残っていくためのヒントがきっとある」
「日本でだけ続けざまに巨大生物騒ぎが起きてきた理由はそれか? それと私に何の関係があるんだね?」
「あたしたちの理想を理解できて協力してくれる大人が必要なの。あたしたちの年齢だと出来ない事が世の中には多いから。もちろん、見返りは用意するよ」
「見返り? ほう、どんな?」
「渡先生と遠山先生には今とは比べ物にならない研究環境を用意する。刑事さんと新聞記者さんと自衛隊員さんにも、その才能をもっと自由に発揮できるお仕事を提供する。どうかしら?」
「ほう! そりゃ魅力的な話だ」
「でしょ? じゃあ、そういう事で」
ヒミコが右手を差し出し握手を求める。渡も右手を伸ばし、だが手の甲でヒミコの手を上に向かって弾いた。キャッと言って手を引っ込めたヒミコに渡は低い声で言う。
「お嬢ちゃん、大人をなめるな!」
顔から笑いを消したヒミコに向かって渡は冷静な口調で言葉を続けた。
「一人残らず救うのは不可能。確かにそうだ。だがな、不可能だと百も承知で、それでも一人残らず救う方法をさがして、もがいてあがく。それが大人のやり方だ。一連の巨大生物騒動に君たちが関わっていたというなら、仲間になどなれるか!」
「おお、こわーい」
ヒミコは大げさにそう言いながら、リムジンに向けて斜面を登り始めた。
「でも、おじ様のそういうとこ好きよ。あたしたちを本気で叱ってくれる大人が周りにいないからね。じゃ、渡先生、そのうちまたお会いしましょ」
ヒミコがリムジンに乗り込み、メイド服の女性がドアを閉める。彼女は渡に向かって深々と一礼し、自分もリムジンの中に消えた。
走り去って行くリムジンを見つめながら渡は、宮下警部補に知らせるべきかどうか考えた。だが結局、連絡を取るのはやめにした。
「そう易々と警察に捕まるような連中なら、こうも堂々と私の前に現れたりはせんだろうな。相手は子どもか。だとしたら……想像以上に手ごわいぞ、これは」
さらに数日後、柳の通夜が都内でひっそりと行われた。柳の遺体は司法解剖の名目で入念に調べられ、データを収取し終わったところで遺族である両親に引き渡された。
柳の死因と今回の一連の事件に関する情報は全て遺族には秘密にされた。博と里香が通夜に出たいと言ったため、宮下が念のため付き添って、兵頭一家4人で通夜が行われているセレモニーホールを訪ねた。
柳の両親には、彼が現役選手だった時のファンだったという話にした。焼香を終え、父親が運転する自家用車で帰宅する途中、博が突然言い出した。
「お父さん、僕はあの高校を受けるよ。医学部を目指す」
兵頭教授は顔を輝かせた。
「そうか! 我が家は代々医師の家系だ。やっと分かってくれたか」
博は凛とした口調で言い返した。
「違う! お父さんの後を継ぐためじゃない。お父さん、おととい、ちらっと言ったよね。あの人工筋肉を悪用するケースは今後も出て来るかもしれないって。医学の力で人間を、あんな怪物にする事が出来るなら、その逆も出来るはずだよ。柳のおじさんみたいな犠牲者を元の体に戻す方法を研究するんだ。僕はそのために、医学の研究者になるんだ」
それから1週間後、中型のヘリコプターが黒部ダムの上空を横切って内陸に向かっていた。後部の座席に座っているのはヒミコとお付きのメイド服の女性だった。
メイド服の女性が窓の外を指差しながら説明した。
「あの一帯の土地です。湧水地点を含む全ての区画を、ダミー会社に買収させました」
ヒミコは眼下の景色を見ながら言った。
「へえ、わりと岩肌むき出しの場所が多いんだね。あたしの水源地のイメージとはちょっと違ってたかも。本当の購入希望者が中国資本だと気づかなかったら危ないとこだったね」
「はい、中東支部からの情報提供のおかげで、金額で競り勝つ事が出来ました」
ヒミコはタブレットで何かの資料を読み、ため息をついた。
「外国人の土地購入の規制が、やっと報告義務の段階って。まだ大きなニュースになってないだけで、水資源を巡る武力紛争はとっくに世界中で起きてるのに。そんな時代に水源地の土地を外国資本に抑えられる事がどれほど危険か、そんな事も理解できないなんてね。やっぱり大人はダメだわ」
ヒミコはまた窓の外の景色を見渡しながら、大人びた笑みを浮かべた。
「ま、いいさ。いざとなれば、ノーヴェル・ルネッサンスが買い占めるまでよ。それこそ、この日本の国そのものをね」
冬晴れの青い空の下、ヘリコプターは方向を変えて飛び去って行った。