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ヒヌアラらしきネドマリアは微笑みを湛えたままに濡れたように艶めく紅い唇で問いただす。「なぜ子供たちが外にいるのかしら、ショーダリーちゃん。貴方、アタクシたちを裏切る気なの?」
ショーダリーは絡みつく葛から何とか足を引き抜こうとするが、獲物の首筋に食らいついた狼のように決して離すことはなく、ますます肉に食い込むだけだった。
ショーダリーは苦痛に顔を歪めつつ回らない舌を回す。「いずれにせよ、いつかは可能な限り子供たちを親元に返すつもりだったんだ」
「まあ、なんでもいいのよ。さあ、皆さん。ご帰宅の時間でしてよ」とヒヌアラは子供たちに呼びかけるが誰も答えようとはしない。ヒヌアラは大げさにため息をつく。「まだまだ教育がなっていませんわね」
ネドマリアはその高く鋭い靴の踵で地面をぐりぐりと抉り、油菜の種を植える程度の小さな穴をあける。それと同時に大地にさえ悪夢を見せる強力な呪文を唱えた。
砂漠の国の歌と森林の国の鬨の声を駆使した回文であり、グリシアン大陸南方で広く使われる雨乞いの言葉や谷間に潜んで暮らす民が子供の成長を願う祝福の言葉も用い、山羊を潰す時に宥めることができる歌に乗せている。ただでさえ高度で強力な魔術が魔導書を触媒にして行われた。
大地を割るような轟きが響く。樫の巨木が一つまた一つと新市街の家々を下から突き上げる。白亜の石畳が雨あられと降る。爆発的に生長した樫に吹き飛ばされたのだ。白い家々の瓦礫が散乱し、丘を転がり落ちる轟音に人々の悲鳴が加わる。大人も子供も逃げ惑い、しかし滅茶苦茶に走り回っているはずの子供たちだけは何故か誘われるように、何かに導かれるように一か所に、聖市街の門へと雪崩れ込んでいる。
ショーダリーが喉を擦り合わせたように呻く。足元から蔓薔薇までもが生えてきて、ショーダリーの体を這い進み、その恐怖の棘を肉に食い込ませる。しかし次の瞬間には見えない刃に切り裂かれ、ショーダリーは拘束から逃れた。
「へえ、やるじゃない。まあ、当然と言えば当然なのかしら。魔導書を預かってきたワーズメーズの名門家系ですものね」少しばかり感心した様子でヒヌアラが言った。「とはいえ、ネドマリアならもっと簡単で確実な魔法を使って、大地を眠らせることも出来るそうよ。魔導書が無くてもね。ワーズメーズの運営委員長さん」
少し視界の広いユカリが先に気づき、ショーダリーの口で叫ぶ。「後ろ!」
ショーダリーは咄嗟に飛び退こうとするが、いつの間にか生えて蔓を伸ばしていた葡萄に右腕を掴まれる。再び植物を切り裂こうと呪文を唱えるが、間に合わず肩を脱臼した。
ショーダリーの苦鳴が辺りに響く。
「まあ、勘はよろしいのね。とはいえ、魔導書を使わずとも差は歴然。そもそも何で貴方を連れてきたのだったかしら?」ヒヌアラが誰かに尋ねる。「成り行きだよ。ええ? そうだったかしら? まあ、なんでもいいわ。それじゃあ、連れてきた時と同じようにしましょうか」
ショーダリーは何か呪文を唱えようとしたが、足から力が抜けたように頽れた。
ユカリにはその有様に見覚えがあった。ワーズメーズでまさにショーダリーにかけられた勇気を奪う魔法をかけられた時と同じようだった。あれは全身の力が心の奥の闇に吸い込まれていくような感覚だった。
その間にも子供たちは恐怖に飲まれるショーダリーを横目に聖市街に戻っていく。訳も分からず恐怖と混乱に右往左往しているはずなのに、子供たちは吸い込まれるように門の向こうへと迷い込まされる。
その時、ヒヌアラが高らかに嘲笑した。それは涙声ではない。ヒヌアラは涙など流していなかった。泣き声の呪文で行使される勇気を奪う魔法など使っていなかった。ショーダリーは自ずから生まれた恐怖に屈してしまったのだった。
「無様ですわね、ショーダリーちゃん。恐怖を想像して恐怖してしまったのね。おお、よしよし。怖いことなんて何もないのよ?」
ユカリはショーダリーにだけ聞こえるようにショーダリーに呟かせる。「私に考えがあります。勇気を出してください。勇気を奪われるために。お願いします」やや間をおいて唾を呑みこんで、ショーダリーが背後に存在を感じさせるユカリに問う。「勝算があるんだな?」
ショーダリーに頷かせることで、ユカリは肯定を示す。
ショーダリーは顔を上げ、ネドマリアを睨みつけ、切り裂かれた蔓を掴むと立ち上がって投げつける。すると蔓は稲光を発し、何本もの小さな蔓が生え、ネドマリアの方へ百足のように地を這いながら進む。しかしほんの少し進んだだけで迷いの呪いに飲み込まれ、蔦の百足は地面に円を描き続けた。
「人は変わるものね、ネドマリア。ショーダリーちゃんは己の恐怖へ立ち向かったのよ。ええ、きっとそうよ。そう思ってあげようじゃない」そう言ってヒヌアラは魔導書を懐から取り出し、涙を流す。「でも、魔導書の恐怖には抗えない」とヒヌアラは【震える声】を放つ。
ショーダリーは苦悶の表情で再び両膝をつく。「耐えてください」とユカリはショーダリーに小さく呟かせる。
これで完全に屈服させたとヒヌアラたちは思い込むはずだ。隙を見てユカリがショーダリーの体を操作し、魔導書を奪い取る。
ショーダリー自身は俯いているが、ユカリは別の形で周囲を認識し、様子を伺える。
「さて、そもそもですわ」ネドマリアがショーダリーに近づいてくる。「パピちゃん。一体何があったの? ショーダリーは貴方の管轄でしょう?」
パピがユーアに統合されただろうことにヒヌアラは気づいていないらしい。
「パピ?」と疑念を表し、ネドマリアが立ち止まる。
その表情からありありと不審を抱いているのが分かる。このままでは機会を失う。
「ごめん、ごめん。少し離れてたよ。ヒヌアラ。ネドマリアかな?」とユカリはパピのふりをしてショーダリーに喋らせた。
ショーダリーをゆっくりと立ち上がらせる。
「今日は随分素直ですこと」ショーダリーを見上げるネドマリアの眼差しにはまだ疑いが残っている。「素直ついでに言い訳を聞かせてもらえるかしら?」
「言い訳も何も、ショーダリーが裏切った。それだけだよ」
「他の誰かに知らせることだってできたでしょう? 今まで何をしていたの?」
「何をしていたのって」ユカリはショーダリーを操作しつつ、走り回る子供たちの流れを観察する。「どうしろっていうのさ。僕は勇気を奪う魔導書を持っていないんだから、抵抗されれば操れない」
ユカリはあえて足を踏みだす。足が地面に着いた途端、目の前に突然現れた壁にぶつかる。迷いの呪いだ。
「パピちゃんはそんなにもお馬鹿さんだったかしら? 他の誰かを操作してこの事態を止めるとか。アタクシたちに知らせるとか。何かやりようはあったでしょう」
「他の誰か? ちょうどいいのがいなかったんだよ! もう! 僕の周りにまで呪いをかけないでよ!」
壁にぶつかった衝撃でふらついているという風に見せ、ショーダリーを適当に歩き回らせ、何もないところで道に迷わせる。迷いの呪いを把握すれば、ネドマリアが油断している隙に近づき、魔導書を奪える。
「そういうことね。分かったよ」ネドマリアは二つの声音を使い分ける。「迷いの呪いは解かないし、新しく編み出した呪いも加える」ネドマリアが爪先で地面に文字を書く。「パピ、貴方怪しい、何かを探っている節がある。ねえ、パピちゃん、ショーダリーが裏切ったのなら、今の貴方はなんでショーダリーを操作できるの?」
ユカリは思わぬ問いかけを受け、隙を伺う思考が麻痺する。
「え?」
ヒヌアラは僅かに眉根を寄せる。「実は勇気を奪う魔法はもう使ってないのよ、パピちゃん。訳が分からないけど、つまりショーダリーと共犯だったのかしら?」
かまをかけられたことに気づき、ユカリは反射的に駆け出す。迷いの呪いは把握した。上手く使えば、ネドマリアの背後に一跳びだ。その通りにネドマリアの背中から飛びつき、魔導書を奪う。勇気を与え、奪う魔法の魔導書だ。
「ショーダリーさん。加減してね」とユカリはお願いし、ショーダリーは聞き届ける。
ショーダリーは【涙を流す】。ネドマリアは恐怖に歪めた顔を両手で覆い、地面に許しを乞うように屈する。ショーダリーはネドマリアがもう一つ所持していた迷わずの魔法の魔導書も奪い取る。
「何故? 最近編み出したばかりの迷いの呪いを一瞥で解き明かして逆用するなんて。あなたごときが」とネドマリアは震える声で疑問を呈する。
「ごめんなさい。ネドマリアさん。私、ちょっとだけずるしちゃいました。今、ネドマリアさんの研究施設にいるんです。新しい迷いの呪いについて学ばせてもらいました」
ショーダリーを操作しながら、研究施設を捜索するのは骨が折れた。
疑問が解けたことでネドマリアは穏やかな表情をする。「ああ、ユカリ、そういうことね。やるじゃない、なかなかね」
「ショーダリー! ネドマリア!」と第三者が呼びかける。
「あ! パディアさん!」とユカリはいつものつもりで返事をするが声音は低かった。
杖を構えてこちらに向け、パディアはあからさまに警戒した。
「違います! 違わないけど、私です。ユカリです。今ショーダリーさんの体を操作してます」
ビゼも現れ、パディアの杖を降ろさせる。「ショーダリーはあんな演技が出来るような男じゃないよ」
「それが出来る別人が操っているかもしれませよ」とパディアが言うと、
「それもそうかもしれない」とビゼは再びパディアの杖を上げさせた。
「いや、私ですって。ほら、これ、魔導書です。とりあえず預かってください。その前にネドマリアさんを拘束してもらえますか?」
パディア達は何とか信じてくれた。ビゼが悪霊をも縛り付ける魔術で無抵抗のネドマリアを拘束する。ユカリはビゼに二つの魔導書を預ける。ビゼは辺りに漂う迷いの呪いを迷わずの魔法の魔導書で切り裂いていく。ユカリはショーダリーを通じてネドマリアと向き合う。
「ヒヌアラさん。パピの件ですが、その前に複数の人格の話は聞いていますか?」
「アタクシたちのことかしら?」と言ったのはネドマリアではなく、いつの間にか近くにいた見知らぬ少年だった。
ユカリは冷静に努め、少年の方に向き直る。
「つまり、あなたたちがユーアの中に生まれたことについてです」
「生まれた? それをあなたが知っているって言うの? ユカリちゃん」
「はい。おそらくですが、あなたたちはユーアそのものです。ユーアの人格が複数に分かれたのだと思います」
「へえ、それは新たな見解よね、ネドマリア。信じがたいこと、とも言えないわ。ネドマリアが読み漁ってたこの国の魔法研究の資料に似たような事例があったもの。魂の分割。複数の魂の両立。破壊。再生。複製。魔法使いって業が深いわよね」
「ユーアのそれについて原因までは分かりません。そしてパピはユーアに統合されたものと思います」
ヒヌアラの少年は不審気な眼差しをユカリに向ける。
「パピがユーアになったということ?」
「成り代わったわけではないと思います。パピがユーアに還ったというか。吸収されたというか。実際の所、私には感覚が分からないので、ヒヌアラさんはどうですか?」
「アタクシにも分からないわよ。アタクシたちがどこから来たのか、どこへ行くべきなのか。それぞれが独立しているし、ユーアとはずっと喋ってないわ。それでアタクシも統合されろって? そう言いたいわけ?」
「正直、分かりません。何が正しい選択なのか。ユーアを尊重するということは、ヒヌアラさん、貴女を尊重するということでもありますから」
考え込む少年の表情から力が抜け、今にも泣きそうな表情に変わった。ヒヌアラはどこかへ去ってしまい、ユカリは何とかその場に取り残された少年をあやしつつ解放する。
「ショーダリー? 生きてるんだよね?」ネドマリアは俯いたままに言った。「貴方はどうなの? ユーアを裏切るの?」
再びショーダリーが己の体の支配権を取り戻し、首を振って答える。「裏切るという意志でやっているわけではない。ただ、ユーアの手助けをやめて、ユーアを救おうとするユカリを手助けする。それだけだ」
「詭弁だね。貴方らしいよ」ネドマリアはそれ以上、何も言わなかった。
「パディアさん。ビゼさん。もう壁の内に入っても大丈夫です」とユカリはショーダリーを通して伝える。「迷いの呪いが残っていたとしても魔導書がありますし」
「ありがとう、ユカリ」ビゼは頷いてから答える。「僕たちもすぐに向かうよ」
「ここまでさせておいて言うのもなんだけど無理はしないでね」とパディア。
ショーダリーの体でなければパディアを抱きしめていたところだ。
「ショーダリーさんは引き続き、子供たちの脱出をお願いします」とショーダリーは言い、答えるように頷く。