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――「がんばる」
その一言を、らんが口にしたこと自体が、どれほどの決意だったのか。俺には、分かりすぎるほど分かってしまった。
「……うん」
それ以上、何も言わなかった。
褒めすぎれば重荷になるし、軽く流せば嘘になる。ただ、その言葉を一緒に抱えておく。それでいい気がした。
その日は、それ以上の「挑戦」はしなかった。らんは疲れていたし、俺も、正直言えば限界に近かった。心を張り詰めたまま、数分の不在を乗り越えるだけで、こんなにも消耗するなんて思っていなかった。
夕方。窓の外が、少しずつ橙色に染まっていく。
「……きれい」
らんが、ぽつりと呟いた。
「夕焼け?」
「うん……」
珍しく、自分から外を見ている。その横顔を見て、胸の奥が、きゅっと鳴った。
「前はさ」
「ん?」
「病院の窓なんて……いやだった」
そうだろうな、と思う。閉じ込められているみたいで、逃げ場がなくて、白衣と同じ色をした世界だっただろう。
「でも……今日は……」
言葉を探すみたいに、らんは少し黙る。
「……元貴が、いるから……かな」
俺は、返事に詰まった。それは、嬉しい言葉であると同時に、俺が越えなきゃいけない壁の名前でもある。
「……それも、あると思う」
慎重に言葉を選ぶ。
「でもさ、らんが、自分で見ようって思ったのも、本当だと思う」
らんは、少し驚いた顔をした。
「……わたし?」
「うん」
彼女はもう一度、窓の外を見る。
「……じゃあ……ちょっと、えらい?」
その聞き方が、あまりにも幼くて、胸が締め付けられた。
「ああ。すごく」
即答だった。らんは、照れたみたいに視線を逸らして、布団を掴んだ。
夜。消灯の時間。いつものように、俺はベッド脇の椅子に座る。らんは、当たり前みたいに俺の服の裾を掴んだ。
「……ねえ」
「ん?」
「さっきの……コーヒー……」
一瞬、息が止まる。
「……また、行く?」
「今日は、行かない」
そう答えると、らんは安心したように息を吐いた。
「……でも、明日は、行くかもしれない」
「……っ」
指先に、きゅっと力が入る。
「三分か……五分」
「……こわい」
「うん」
否定しない。
「怖いままで、いい」
「……?」
「怖いけど、戻ってくる。それを、何回か一緒にやる」
らんは、しばらく黙っていた。やがて、すごく小さく、頷く。
「……いなくなるなら……いや」
「いなくならない」
言い切る。
「怖いのは、置いていくけど。俺は、置いていかない」
その違いが、今はまだ、完全に伝わらなくてもいい。らんは、俺の服に顔を埋めた。
「……わかった……」
その夜、らんは何度か目を覚ました。そのたびに、「いるよ」と声をかけた。
でも、少しずつ、その間隔が伸びていくのを、俺は感じていた。
翌日。心理士が来ることになった。白衣じゃない。柔らかい色のカーディガンを羽織った女性。
「こんにちは。今日は、お話だけです」
ドアの外から、きちんと名乗る。らんの肩が強張る。でも、逃げはしなかった。
「……元貴」
「いる」
俺は、いつも通り、彼女のそばに座る。心理士は、一定の距離を保ったまま、静かに話し始めた。
「怖かったことを、無理に話さなくていいです」
「……」
「今、怖い“感じ”が、どこにあるかだけ、教えてもらえたら」
らんは、しばらく考えてから、胸に手を当てた。
「……ここ」
「どんな感じですか」
「……ぎゅって……なる」
そのやり取りを聞きながら、俺は息をするのを忘れないようにしていた。口を出したい衝動を、必死で抑える。
「その“ぎゅって”なったとき、今、何が見えますか」
らんは、ちらっと俺を見る。俺は、黙って頷いた。
「……元貴」
「うん」
心理士が、微笑む。
「じゃあ、元貴さんを見ながら、ここにいるって、確認しましょう」
それは、俺を「盾」にするやり方でもある。でも同時に、「現実」に繋ぎ止める錨を、少しずつ言語化していく作業でもあった。
「床、あります」
「……うん」
「椅子、あります」
「……ある」
「呼吸、できます」
「……できる」
一つ一つ、確かめるたび、らんの肩の力が抜けていく。セッションが終わったあと、らんはぐったりしていた。
「つかれた……」
「…頑張った」
今日は、即答じゃなかった。ほんの一拍、置いてから、そう言った。
その違いに、らんは気づかなかったかもしれない。でも、俺は気づいていた。「反射」で支えるのを、少しだけやめた。その分、らんが、自分で立っていた。
夜。ベッドに横になりながら、らんがぽつりと言った。
「……今日……元貴……ずっと、さわってなかったね」
心臓が、どくっと鳴る。
「……いやだった?」
「ううん……」
少し考えてから。
「……ちょっと……さみしかった」
「……そっか」
否定も、正当化もしない。
「でも……」
「ん?」
「……ちゃんと……いた」
その言葉に、喉の奥が熱くなる。
「……うん」
俺は、そっと、彼女の手を握った。
前みたいに、絡め取るようじゃなく。確認するみたいに。
「ここにいる」
らんは、ゆっくり目を閉じる。
「……あしたも……」
「うん」
「……すぐ、戻ってくる?」
「戻ってくる」
それは、約束であり、訓練であり、希望だった。
依存と支えの境界は、まだ曖昧だ。俺も、完璧にはできない。きっと、何度も、間違える。
それでも――
奪わず、突き放さず、少しずつ。俺の腕が「世界のすべて」じゃなくなる日まで。らんが、自分の足で、現実に触れられるようになるまで。俺は、ここにいる。
一歩先じゃなく、半歩横で。逃げ場として、そして、戻ってくる場所として。