テラーノベル
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【蒼翔】「割れた鏡」
深夜2時、玄関のインターホンは鳴らなかった。鍵が回る音だけが聞こえた。
蒼翔は無言で部屋に入ってきた。怒っているときの兄は、静かだ。足音ひとつが爆発の予兆だった。高校のころ、壁に殴りつけられた痕が、左肋骨に残っている。
「風呂、入ったか」
問いではない。確認だ。悠翔はわずかにうなずく。
その直後、部屋の中央に投げ出される。床が軋んだ。
「……“あの程度”で、泣き顔見せてんじゃねえよ」
蒼翔の手が悠翔の髪を鷲掴みにする。強く、乱暴に。
「この前の動画、おまえちっとも“壊れてなかった”」
ぞっとするような笑みが浮かぶ。
「おまえはさ、俺らの“ストレス処理装置”なんだから」
記憶が、何度も上書きされていく。中学の頃。脱衣所で倒れていたとき、浴槽の縁で頭を打ったとき、笑っていたのはいつもこの兄だった。
ただ殴るだけじゃ足りず、「潰す」ように手加減なしで蹴られた。
「喋れ。『ありがとう、お兄ちゃん』って言え」
言わないと、もっと酷くなるのはわかっていた。それでも、唇は乾いたまま動かなかった。
その晩、蒼翔は全裸のまま浴槽に悠翔を押し込め、「きれいにしてやる」と笑いながら熱湯をかけた。皮膚の感覚は薄れ、羞恥だけが皮膚の下で燃えていた。
扉の隙間から漏れた湯気の中、蒼翔はスマホで何かを撮っていた。
「やっぱこういう画、映えるわ」
その言葉は、兄弟としての線引きを、永遠に踏み越えたまま戻らなかった。
【陽翔】「壊れた授業」
「久しぶり。元気だった?」
柔らかな声に、無意識に返事をしかけて、悠翔は口をつぐんだ。陽翔はいつも、“正しい兄”の仮面をつけて現れる。大学では助教として名が売れていた。
それだけに、支配は見えづらく、深い。
「最近、学生たちからよく聞かれるんだよ。『悠翔くんって、あの動画の……』って」
カップに注がれた紅茶が、静かにゆれる。陽翔の笑みが貼りついたまま、目は笑っていない。
「嫌だったよ。俺が“おまえの兄”として恥ずかしいって思われるの」
ひと呼吸置き、優しく続ける。
「だから、ちゃんと罰しないと」
手の甲が頬に触れた瞬間、悠翔の背筋が震えた。その温度が、かつて中学の音楽室で、笑いながら録音されたあの声を思い出させた。
『ねえ、なんで泣いてんの? 俺、何もしてないよ?』
あの言葉に、悠翔はどれほど救いを求めたことか。
だが今、その手が首筋へと移動する。丁寧な手つきでシャツのボタンを外しながら、陽翔は言った。
「“きみの存在”を、論文の一部に使おうかな」
意味のわからない冗談。けれど、その目は本気だった。
「『心理的従属関係における肉体的記憶の継続性』とか、どう?」
「やめて」――声が震える。
「だめだよ、反抗しちゃ」
そのままの体勢で、陽翔はカメラを取り出した。レンズ越しに映った自分の表情が、あまりにも「壊れかけた弟」だったことに、悠翔は目を背けられなかった。
【蓮翔】「編集される生」
蓮翔が来た夜は、いつも静かだった。
彼の機材の音だけが部屋を満たす。三脚を立て、照明を調整し、録音レベルを確認する。まるで自宅スタジオ。
「今回ね、“無抵抗のまま涙をこらえてる顔”ってテーマでいこうと思うんだ」
悠翔の意見など求めていない。蓮翔にとって、弟は素材であり、変数であり、再生数の道具でしかない。
「演技じゃないとこがいいんだよね、おまえ。毎回、ちょっとずつ違う表情するし」
その目は、獲物を見るそれだった。
高校の文化祭。蓮翔が編集した映像で、悠翔は「自分を守る唯一の教師」を失ったことがある。巧妙に切り貼りされた“証拠”で、守ってくれた人の立場は奪われた。
「覚えてる? あのとき泣きながらすがってきた顔。あれ超よかったよ」
悠翔は震えていた。
カメラが回る中、蓮翔は何も言わずに服を剥いだ。ライトが照らす肌に、冷たい空気と羞恥が突き刺さる。
「大丈夫。これは“記録”だから」
蓮翔の手が触れた場所は、どこもかしこも凍るようだった。
そして、撮影が終わったあとに、そっと耳元で囁く。
「また来るね。新作、楽しみにしてるよ」
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