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「お子様に会いに行きたくなったら教えてください」
「あ、はい。えっと……できればすぐにでも行きたいです」
「起き上がれますか?」
「はい」
立ち上がろうとした空色は眩暈がしたようで、うまく起き上がれなかったために咄嗟に腕を伸ばして支えた。
「ありがとうございます……」
「いえ。無理はなさらないほうが」
「でも……あの子、待っていると思うんです。一人だと淋しいじゃないですか。会いに行かないと」
彼女はしっかりとした母親の顔をしていた。強い女性だと思う。
「そうですね。それなら多少の無理は必要かと。行きましょう」
肩を貸して子供が安置されている隣の処置室へ向かった。一人にして欲しいと言われたので俺はそのまま退室した。俺みたいな部外者にいつまでも傍についていられると気も休まらないだろう。
自分が彼女の傍にいたいという欲ばかりを優先してしまい、空色の気持ちを考えていなかった。もうお役御免だと思おう。
彼女が目覚めたことを担当の看護師に告げた。するとすぐさま病室にやって来て、今後のことを矢次に説明を受けた。まだ空色の旦那と間違えられているので、正直に付き添いで代理の者だと名乗った。申しわけないが、本人に直接伝えて欲しい、と。
勘違いしてすみません、と謝られたがややこしいことをしたこちらに非がある。緊急事態なら夫婦で来るのが当然だと、ふつうは思うだろうから。
ただ、夫婦で乗り越えなければならない緊急事態のはずだが、どういうわけか旦那ではなく俺がこの場にいるという謎な現象が起こっている。彼女を助け、支えられるのは今、俺しかいない。
病院では子供の遺体を明日の昼までしか安置できないと謝られた。これについてはどうすることもできない。なんとかできればいいが……。
暫く待っていると空色が病室へ戻って行った。頃合いを見計らってノックをして室内に入った。まずは大丈夫かと声をかけた。俺に気を遣って「なんとか」と答えてくれたが、大丈夫なわけないと思う。
まずは伴侶と間違えられてしまったから正直に伝えたことを詫びた。恥ずかしい思いをしなかったか心配だった。そして困っているだろうから最後まで手伝いたい旨も。
「新藤さんっ……!」
「律さんのアーティスト気質な意思は、恐らくご家族には理解いただけないでしょう。このことをご相談すればすぐに光貴さんの耳に入ってしまう。それをあなたはいちばん恐れている。違いますか?」
「……おっしゃる通りです。しかも火葬の予約が明日しか取れなくて。これを逃すと次はかなり先になるみたいで……思わず予約を入れてしまいました」
「それは……律さん、やはりご家族に相談された方がいいです。火葬までとなれば……」
「でもそうしたら光貴に伝わります!! 明日がライブ本番です。そんな日にわが子の葬儀なんて……っ。そのあとデビューライブで演奏するなんて無理です。絶対に失敗します。あの人のことは、私が一番よくわかっています。繊細だから最高のコンディションで挑まないと……潰れてしまいます。だから絶対言いたくないんです……」
夫婦には、夫婦にしかわからない絆や、思いがある。
俺の考えを押し付けるわけにはいかないから、決定事項は従うしかないだろう。
あとからこの話を聞かされる旦那の身になったら、気の毒になった。
全部蚊帳の外で起こった話で、しかも付き添ったのは俺みたいな他人で、無事に産まれてくると信じて疑わなかった子を亡くしてしまった――彼の身に起こる不幸は想像を絶する。
このことは先に知っておくほうがいいだろう。でも、空色の言う通りデビューライブ前にこのことを知れば、まともな精神状態でギターを弾けるとは思えない。特に繊細な性格ならなおさらだ。
サファイアのデビューライブは、いろいろな方面から期待されている。
新しく加入したギタリストが、どんな音を奏で、どんなライブを見せてくれるのか、ファンや音楽関係者、全員が期待しているのだ。
言えないのも、無理はない。
行きも地獄、帰りも地獄。ならば帰りの地獄を選ぶのか――
帰りの地獄は行きよりも辛いだろう。全て事後報告。しかしそうしなければサファイアのギターとしての成功は勝ち取れない。一度きりのチャンスなのだ。音楽者として成功するには、こうするしか他にない。
空色が下した決断を彼が受け入れ、乗り越えてくれることを願うしかない。