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#ハッピーエンド
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峡谷の上に設けた野営地から、少しだけ離れた場所。
岩陰を避けるように置かれたランプが、ゆらゆらと心許ない光を揺らしている。闇と光の境目に、小さな円卓と、その向かい合うように腰掛ける二人の影。
「ふぅー……お腹いっぱい」
エリーが満足そうにお腹をさすりながら、ぐでんと椅子の背にもたれた。
「毎回、食べ過ぎて太りますよ?」
向かいでカップを傾けていたエドガーが、やれやれと肩をすくめる。
「……エドガー、あなたモテないでしょう?」
むっとしたエリーの一言が、ランプの光より鋭く突き刺さる。
「い、いやっ、そんなことないですよ。ただ今まで、研究で忙しかっただけです」
エドガーは慌てて両手をぶんぶん振り、言い訳を並べる。
ここ最近、食後にこの二人がこうして話し込むのは、すっかり「いつもの光景」になっていた。
さすがのオットーとダリウスも、ようやく空気を読めるようになり、「ちょっと散歩でもするか」と言っては早々に席を外すのが習慣になっている。
静かな夜風と、遠くで聞こえる焚き火と笑い声。
ランプの光の中だけ、別の時間が流れているようだった。
「でね、そのとき私の誕生日にクマのぬいぐるみをプレゼントしたのよ」
エリーはどこか誇らしげに、昔話を続ける。
「私は、女心がわかってないって突き返したわ」
あの頃の自分を思い出したのか、少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべる。
「嘘ですね」
エドガーが即座に切り返した。
「クマさんエプロンに、クマさんシャツ。それに、クマさんハンカチも持ってますよね?」
「……た、たまたまよ」
エリーは視線を逸らし、頬をふくらませる。
ランプの灯りが、わずかに赤くなった耳の先を照らした。
「ふふっ」
エドガーは、にこやかに笑うと、そっとエリーの瞳を見つめた。
「そうやって、たくさんの人の思いを、現代まで運んできたんですね」
からかい半分のはずの言葉に、妙な優しさが混じっていた。
エリーの胸の奥で、遠い日のぬくもりだけが、ふわりと揺れる。
「……あぁ! そうだ」
その痛みから逃げるように、エリーは唐突に立ち上がると、腰のポーチをごそごそと探りだした。
やがて取り出されたのは、琥珀色の液体が揺れる小さな瓶だった。
「それは?」
エドガーが首をかしげる。
「この塔からもらったの。失った記憶を戻すらしいわ」
エリーは少しうんざりしたように、瓶を指先でつまんで見せる。
「いいんですか? そんな大事そうなものを」
「いいのよ」
エリーはひらひらと手を振った。
「きっと、やばい副作用あるに決まってるんだから」
「それはそれは……」
エドガーは苦笑しつつ、慎重に瓶を受け取る。
ランプの灯りが、瓶の中の液体に反射して、彼の真面目そうな横顔に琥珀色の光を落とした。
「では、念のため持っておきますよ」
「えぇ、あなたなら、変な使い方はしないでしょうしね」
エリーは、からかうようでいて、どこか信頼の滲む声で言う。
ランプの炎が、ふっと揺れた。
二人の影が、一瞬だけ、ひとつに重なって見えた。
*
峡谷の上の野営地は、風の音だけが通り過ぎていた。
ランプはすでに落とされ、テントの中には、寝息と寝袋の擦れるかすかな音だけが漂っている。
ミラだけが、目を閉じたり開けたりしていた。
寝袋の中で、仰向けになって天井を見て――
すぐに、うつ伏せになって――
それから、身体をきゅっと丸めて「く」の字になる。
(……眠れない)
胸のあたりが、重たくて、ぎゅうっと締め付けられているようだった。
(加護、使わないって決めたら……私の役目って、なんなんだろ)
あの石みたいに冷たい腕。
エリーの真剣な顔。
「次使ったら言うわよ」という声と、あとの優しい大人たちの気遣いが、頭の中でぐるぐる回る。
(オットーも、ダリウスも、エドガーも……みんな戦ってるのに)
ぎゅっと膝を抱える。寝袋の布がきしっと鳴った。
(前に、ダリウスの背中に深い傷ができたとき——みんなが血の気の引いた顔で覗き込んでた。私が手をかざして、光が走って、「助かった」って笑ってくれた……)
(だったら、私に残るのは……“治す”しか、ないのに)
答えは出ない。
ただ、考えれば考えるほど、胸の中の「何か」がどんどん膨らんで、眠気だけが遠ざかっていく。
峡谷の夜は、そんなミラの心とは無関係に、静かに、同じ速度で更けていった。