テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
再建から数年。
かつての荒廃した王都は、今や「和」の静謐さと「唐」の華やかさが調和した、地上で最も穏やかな理想郷へと姿を変えていた。
しかし、その奇跡のような平和は、一人の男の献身的な犠牲の上に成り立っていた。
元貴は、もはや「王」という称号に縛られてはいなかったが、実質的な指導者として、連日連夜、民の陳情を聞き、痩せた土地に癒やしの術を注ぎ込み続けていた。
「元貴様、少しはお休みください。顔色が紙のように白いですよ」
側近の老婆が案じる声も、今の彼には遠く響く。
元貴は、机の上に山積みにされた復興計画書に目を落としたまま、無理に口角を上げた。
「大丈夫。……あと少しだけ、この水路の設計を終わらせたら休むから」
だが、その直後だった。
視界が急激に歪み、極彩色の天井がぐにゃりと曲がった。
ペンを握っていた指先から力が抜け、元貴の体は糸の切れた人形のように、冷たい床へと崩れ落ちた。
「元貴様!? 元貴様!」
その頃、滉斗は王都から数里離れた北の峻険な山岳地帯にいた。
冬の間に崩落した街道を、自慢の氷剣術で一時的に凍結させ、補強する作業の指揮を執っていたのだ。
「若井様、本日の作業はこれで……」
部下が声をかけようとした瞬間、一人の伝令が血相を変えて駆け込んできた。
「若井当主! ……元貴様が、執務室で倒れられました! 意識が戻らないと……!」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、周囲の空気が一変した。
凄まじい冷気が爆発的に広がり、足元の土壌が一瞬で凍りつく。
滉斗の瞳から色が消え、かつて「氷の死神」と呼ばれた頃の、鋭く、凍てつくような殺気が立ち昇った。
「……持ち場を離れるな。あとの指揮は副官に任せる」
短く言い放つと、滉斗は馬に跨がる時間さえ惜しみ、己の魔力を脚に集中させた。
氷の結晶を空中に跳ねさせ、それを足場にして空を駆けるような異常な速度。
かつて戦場で敵軍を殲滅するために使ったその神速の歩法を、今はただ一人の元へ辿り着くためだけに使い果たしていた。
王邸の寝室。
そこは、かつて二人が幼い頃に「結婚しよう」と誓い合った、あの聖域だった。
荒い息をつきながら扉を乱暴に開け放った滉斗の目に飛び込んできたのは、真っ白なシーツに埋もれ、死人のように静まり返った元貴の姿だった。
「元貴……!」
滉斗は、泥に汚れたままの膝を床につき、元貴の手を握りしめた。
その手は、かつて自分が氷術で凍えさせてしまった時よりも、ずっと、ずっと冷たかった。
「……医者は何と言った」
背後に控える医師に向けられた声は、地を這うように低く、怒りに震えている。
「過労……そして術式の過剰行使による魔力枯渇です。命に別状はありませんが、あと一日発見が遅れていれば……」
滉斗は奥歯を噛み締めた。
自分が傍にいながら、あんなにも細くなっていく背中に気づかなかった。守ると誓ったはずの男を、皮肉にも、平和という名の激務が蝕んでいたのだ。
「……下がれ。全員だ。俺が、こいつを温める」
部屋に二人きりになると、滉斗は軍服を脱ぎ捨て、元貴を布団ごと抱き寄せた。
己の体温を分け与えるように、強く、壊れ物を扱うように優しく。
「……馬鹿野郎。誰よりも自分を大切にしろと言っただろう」
数時間が経過し、窓の外が藍色に染まり始めた頃。
元貴の睫毛が微かに震え、琥珀色の瞳がゆっくりと開いた。
「……あれ。ひろぱ……? 仕事、は……?」
霞む視界の中で、自分を抱きしめる滉斗の、必死で、どこか泣き出しそうな顔を見つける。
「仕事の話など二度とするな。……次に無理をしたら、この国ごと凍らせて、お前を永遠に眠らせてやるからな」
その言葉に、元貴は力なく、けれど幸せそうに微笑んだ。
「それは、困るなぁ…でも、ありがとう。僕の騎士様」
滉斗の胸元にある、翡翠の守り袋。その温もりを感じながら、元貴は再び深い、本当の意味での「休息」の眠りへと落ちていった。
「……おやすみ、元貴。明日、目が覚めたら、お前が一番好きな椿の茶を淹れてやる」
最強の盾は、その夜、愛する人の微かな寝息だけを、世界で一番大切な旋律として聞き続けていた。
コメント
1件