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ぽんぽんず
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第三話「誤算という名の感染」
八月の太陽は、正直すぎて嫌いだ。
隠さない。曖昧にしない。ただ真上から全部を照らして、影を地面に押しつける。灰次は下校途中の歩道で自分の影を見ながら、そんなことを考えた。影は短くて、濃くて、自分の足元にべったりと貼りついている。踏んでも剥がれない。どこへ行っても一緒についてくる。
うんざりする。
でも今日は、悪い一日じゃなかった。
夏休み前最後の登校日で、クラスは浮かれていた。浮かれているときの人間は、灰次のことを忘れる。忘れてくれる方が楽だ。誰かに意識されているときの方が、ずっとしんどい。
それと、放課後に藍と会った。
夏休み中は学校に来なくなるから、しばらく会えない。そう思って図書室に行ったら、藍はもう来ていた。いつもより少し早く。
「来ると思ってた」と藍は言った。
「なんで」
「なんとなく」
藍はそれ以上説明しなかった。灰次も追わなかった。ただ隣に座って、二人で外を見た。校庭では帰宅する生徒たちが、夏休みの解放感で大声を上げていた。あの輪の中に自分が入れるとは思わなかったけれど、今日はそれが少しだけ遠い話のように感じた。
「夏休み、暇?」と藍が聞いた。
「……暇です」
「そう」
少し間があった。
「じゃあ、たまに連絡する」
それだけだった。たまに連絡する、という言葉が、灰次の中でゆっくりと溶けた。
帰り道、太陽はうるさいくらいに照りつけていたけれど、灰次の足取りはいつもより少しだけ軽かった。
夏休みの間、藍は本当に連絡をくれた。
毎日ではない。三日に一度か、四日に一度か。でも来るたびに、灰次は画面を開いた瞬間に心臓が変な動き方をした。慣れなかった。何度経験しても、慣れなかった。
『暑いね』
『暑いです』
『何してる』
『特に何も』
『そっか。ちゃんとご飯食べてる?』
ご飯。
灰次は少し考えた。今日食べたのはコンビニのおにぎり一個だった。母親は昨日から家にいなくて、冷蔵庫には何もなかった。でも心配させたくなかった。心配、というか——藍をわずらわせたくなかった。
『食べてます』
嘘をついた。
少し経ってから、
『本当に?』
と来た。
灰次は画面を見て、三秒固まった。
『……おにぎり一個だけです』
『それは食べてないのと同じ』
それから十分後、
『明日、暇?』
と来た。
翌日、藍と会った。
最寄り駅で待ち合わせて、商店街の定食屋に入った。藍が「ここ美味しいから」と言って迷わず扉を開けた。灰次はその後に続きながら、こういうとき藍はいつも迷わないと思った。行き先も、言葉も、行動も。全部に迷いがない。自分とは正反対だ。
焼き魚定食を二人分頼んだ。藍がさっさと注文したので、灰次は頷くだけだった。
食事をしながら、特に何も話さなかった。でも沈黙は苦じゃなかった。テレビの音と、他の客の声と、食器の音が混ざって、その中に自分たちがいた。それだけで、なんとなく良かった。
「おいしい?」と藍が聞いた。
「……はい。すごく」
「でしょ」
藍は満足そうに笑った。その笑い方が少し子どもみたいで、灰次は思わず視線を落とした。正面から見ると、うまく息ができなくなることがある。
「灰次って、好きな食べ物ある?」
「……考えたことなかったです」
「そっか」
「藍は?」
「私?」藍は少し考えてから、「あんまりこだわりない。でも苦いものは好き。コーヒーとか、ビターチョコとか」
「苦いのが好きなんですか」
「甘すぎるのは、信用できない気がして」
灰次はその言葉の意味を考えた。よくわからなかったけれど、なんとなく藍らしいと思った。
「灰次は甘いのが好きそう」と藍が言った。
「なんで」
「なんとなく。甘いもので満たされたい人に見える」
満たされたい。
その言葉が灰次の胸に刺さった。刺さって、抜けなかった。
見えているのか。自分でも気づかないところが、藍には見えているのか。それが怖いような、でも怖くないような、不思議な感覚だった。見られることに慣れていない。でも藍に見られることは、嫌じゃない。
「……そうかもしれないです」
灰次は小さく言った。
藍はそれを聞いて、また笑った。今度は先ほどより少し違う笑い方で、灰次にはその違いが何なのかうまく説明できなかった。
食事の後、二人で川沿いを歩いた。
特に目的地はなかった。ただ歩いた。川は夏の日差しを反射して、まぶしいくらいに光っていた。水の音が涼しかった。
「学校、嫌い?」と藍が聞いた。唐突に。
「……嫌いです」
「そりゃそうか」
「藍は?」
「好きでも嫌いでもない」と藍は言った。「ただ、あそこにいると便利なことが多いから、行ってる」
「便利?」
「色々と」
色々と、の内側に何があるのか、灰次には踏み込めなかった。藍にはそういう部分がある。話しているようで、核心には触れさせない領域。霧みたいなもの、と以前灰次が思ったそれ。
「灰次は」と藍が続けた。「来年も同じ学校でいい?」
来年。
二年生になっても同じ学校、という意味だと思った。それとも、もっと先のことを言っているのか。
「……同じかどうか、考えたことなかったです」
「そっか」
「藍は、来年も同じですか」
「当然」と藍は言った。迷いなく。「いるよ」
いるよ。
川の水が光を散らしながら流れていた。灰次はその光を見ながら、来年も、という言葉を頭の中でゆっくり転がした。来年も藍がいる。その前提で未来を考えたことが、今まであっただろうか。
なかった気がする。
今まで、未来というものをあまり考えなかった。考えても、いいことがなかったから。でも今は、来年の五月の図書室に、自分と藍が並んで座っている場面が、ぼんやりと浮かんだ。
それが不思議なほど自然で、灰次は少し怖くなった。
夏休みが終わって、二学期が始まった。
クラスの空気は一学期と変わらなかった。変わったのは嫌がらせの種類で、夏休み明けは上履きよりも机の上の方が標的になることが多かった。教科書に落書きをされたり、引き出しの中のものを捨てられたり。手が込んでいる分、悪意が可視化されていて、むしろわかりやすかった。
灰次はそれを淡々と処理した。
一学期より、少し処理が早くなっていた気がした。自分でも気づいていた。消耗が減っている。底が抜けそうな感覚が、少しだけ遠のいている。
理由はわかっていた。
わかっていたけれど、言葉にするのは恥ずかしかった。
放課後、図書室に向かう廊下で、後ろから肩をぶつけられた。わざとだった。弾みで壁に手をついて、そのまま振り返らずに歩き続けた。
図書室の扉を開けると、藍がいた。
それだけで、さっきの廊下の話がひとつ遠ざかった。
「来た」と藍は言った。
「来ました」と灰次は言った。
席に座る。外では九月の空が、まだ夏の残骸を引きずっていた。
「二学期も、しんどそうだね」と藍が言った。
「見てたんですか」
「廊下」
見ていたのか。窓から廊下は見えない。別の経路で見たのか、それとも誰かから聞いたのか。藍のことだから、きっと色々な方法を持っているのだろう。
「……しんどいは、しんどいですけど」と灰次は言った。「前よりは」
「前より?」
「なんか、消耗が減った気がして」
藍は少し黙って、それから、
「なんで?」
と聞いた。
灰次は答えに詰まった。
なんで、の答えは知っている。でも言えない。言ったら何かが変わる気がして、怖かった。変わってしまったら取り返しがつかない気がして。
「……わからないです」
嘘だった。
藍はそれ以上追わなかった。でも少しだけ、唇の端が動いた気がした。笑ったのか、それとも別の何かか、灰次には判断できなかった。
九月の半ば、藍は初めて灰次の頭に触れた。
図書室ではなくて、昇降口の前だった。下校のタイミングが重なって、二人で靴を履き替えていたとき。灰次が靴紐を結んで立ち上がったら、藍の手が灰次の頭に乗った。
軽く、一瞬だけ。
それだけだった。
「お疲れ」と藍は言った。
灰次は何も言えなかった。
言葉が出なかったというより、言葉を探す前に何か別のものが先に来て、頭が一瞬、白くなった。
藍はもう手を引いていた。何事もなかったように前を向いて、「じゃあ」と言った。
「また明日」
そのまま歩き出した。
灰次はしばらく昇降口の前に立ったまま動けなかった。心臓が変な音を立てていた。頭の、藍が触れた場所が、まだ少しだけ熱かった。
なんだ、これは。
灰次は自分の心臓に向かって思った。なんで。なんでこんな。おかしい。おかしいだろう。あれは何でもない接触で、藍にとってはきっと何の意味もなくて、なのに自分は——
なのに自分は、まだそこに立っていた。
夕方の空は少しだけ赤くて、帰る生徒たちの声が遠ざかっていった。
藍はその夜、珍しく眠れなかった。
ベッドに横になって、天井を見て、目を閉じて、また開いた。何度繰り返しても眠気が来なかった。
昇降口での話をしていた。
頭に触れたのは、なんとなく、だった。計算ではなかった。珍しいことだ。藍の行動はだいたいにおいて何らかの意図を持っているが、あれは違った。ただ、手が動いた。
それが気になっていた。
灰次が頭に触れられた瞬間、固まった。固まって、顔が赤くなって——赤くなっていた。夕暮れの光のせいかもしれないが、たぶんそれだけじゃない。
その顔が、頭から離れない。
藍は自分の手を見た。右手。昇降口で灰次の頭に触れた手。別に何も残っていない。ただの手だ。なのになぜ、こんなに気になるのか。
これは誤算だ、と藍は思った。
計算通りに依存させていた相手に対して、自分の側が——自分の側が何かを感じるのは、計算の外だ。今までそんなことはなかった。依存させる側が依存する側の感情に引っ張られるなど、ありえなかった。
ありえなかった、はずだ。
藍は目を閉じた。
灰次の「お疲れ」への反応が、暗闇の裏に貼りついていた。あの震えそうな、でも震えない顔。ギリギリのところで何かをこらえているような、あの顔。
かわいい、と思った。
その思考が来た瞬間、藍は目を開けた。
天井を見た。
かわいい、は今まで使ってきた言葉だ。依存してくる人間を形容するとき、標本みたいで愛らしい、という意味で使ってきた言葉。でも今頭の中に浮かんだかわいい、は——
それと、同じか?
藍はしばらく天井を見続けた。
虫の声はもう秋の虫に変わっていて、夏より少し低く、少し寂しい音がした。
同じ、ではないかもしれない。
その可能性を、藍は初めて、消せなかった。