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ぽんぽんず
99
第四話「臨界、あるいは檻の設計図」
十月になると、空気が変わった。
夏の重さが抜けて、代わりに乾いた冷たさが入ってくる。灰次はその変化を肌で感じながら、登校路を歩いた。落ち葉が歩道の端に溜まって、踏むとかさかさと音を立てた。その音が好きだった。何かを踏みつぶしているような、でも誰も傷つけていないような、そういう音。
学校に着くと、下駄箱に落書きがあった。
マジックで書かれた文字は読める必要もなかった。内容は大体いつも同じだ。消えろ、とか、来るな、とか、存在を否定する言葉たち。灰次はそれを見て三秒だけ停止してから、上履きを取り出して履いた。
慣れた。
慣れてしまった、ということが、ときどき怖くなる。こういうことに慣れていい人間などいないはずで、でも慣れないと生きていけなくて、だから慣れた。慣れることで何かが削れていく感覚は、もう随分前からある。
教室に入ると、誰も見なかった。
灰次も誰も見なかった。
窓の外、遠くの空が澄んでいた。
その日の放課後、図書室に向かう廊下で藍とすれ違った。
すれ違った、というより、藍が待っていた。廊下の窓際に寄りかかって、腕を組んで、灰次が来るのを見ていた。
「一緒に行こう」と藍は言った。
それだけだった。説明もなく、理由もなく。灰次は頷いて、隣を歩いた。
廊下を歩きながら、灰次は藍の横顔を少し見た。横顔はいつも正面より少し遠い感じがして、でも今日は何かが違った。いつもの霧みたいな遠さが、少し薄い。
「下駄箱」と藍が言った。歩きながら、前を向いたまま。
「見た」
「……見てたんですか」
「通りかかった」
藍の声は平坦だった。怒っているわけでも、同情しているわけでもなさそうだった。ただ事実を述べるように言って、それから、
「腹立つね」
と言った。
腹立つ。
灰次は少し驚いた。藍がそういう言葉を使うのは珍しかった。感情を直接的に言葉にすることが、藍には少ない。
「……藍が腹立てることじゃないです」
「そう決めるのは私でしょ」
図書室の扉を開けながら、藍はそう言った。
灰次は何も言えなかった。
席に座って、しばらく沈黙が続いた。
今日の沈黙はいつもと少し質が違った。重いわけじゃない。でも何かが底に沈んでいる感じのする沈黙。
「灰次」と藍が言った。
「はい」
「しんどいとき、私に言える?」
灰次は少し考えた。
「……言ってると思いますけど」
「言ってない。一割も言ってない」
正確だと思った。灰次が藍に話すのは、全部の中のほんの一部だ。残りは飲み込む。飲み込んで、どこかに押し込む。藍をわずらわせたくない、という気持ちと、これ以上惨めなところを見せたくない、という気持ちと、半々くらいで。
「……わずらわせたくないので」
「私がわずらわされたいって言ったら?」
灰次は顔を上げた。
藍はまっすぐ灰次を見ていた。いつものように視線を逸らさない。でも今日はその目の中に、いつもと違う何かがあった。計算でも、観察でも、哀れみでもない。灰次には名前がつけられなかった。
「……それは」
「大丈夫だよ」と藍は言った。
声が、少し低かった。
「全部言って。私に」
全部。
その言葉の大きさに、灰次は少し眩暈がした。全部、なんて受け取れる人間がいるのか。全部を差し出したら、重くて嫌になるんじゃないか。でも藍は「大丈夫」と言った。
大丈夫、という言葉を灰次に使った人間は、今まで誰もいなかった。
「……下駄箱の話」と灰次は言った。声が少し掠れた。「消えろって書いてあったのは、今日だけじゃなくて」
「うん」
「毎日じゃないけど、週に何回かは何か書いてあって」
「うん」
「最初は怖かったけど、最近は怖くなくて、それが怖い」
最後の一文は、言うつもりがなかった。でも出てきた。
藍は黙って聞いていた。頷きもしない。でも聞いていることはわかった。聞いていて、ちゃんと受け取っていることが。
「……続けて」
灰次は続けた。
家のこと。母親が最近ほとんど家にいないこと。いてもいなくても変わらないけれど、いない方が静かで、静かな方が息ができる気がすること。でもひとりでいると、底が抜けていく感覚がすること。
全部じゃなかった。でも今までで一番多く話した。
話し終わると、外はもう暗くなりかけていた。
藍はしばらく黙っていた。それから、
「来てよかった」
と言った。
「え」
「今日、廊下で待ってて。来てよかった」
その言葉の意味を、灰次はすぐには理解できなかった。藍が来てよかった、というのは——藍が待っていてくれたことを指しているのか、それとも別の——
「灰次がいると」と藍は続けた。窓の外を見ながら。「なんか、ちゃんとしようと思う」
ちゃんとしよう、とはどういう意味か。完璧な人間が、ちゃんとしよう、とはどういう意味か。
灰次には分からなかった。
でもその言葉が、胸の奥の柔らかい場所に触れた。
十一月になった。
二人の放課後は、図書室だけじゃなくなっていた。
帰り道が一緒になることが増えて、途中のコンビニで何か買って、川沿いのベンチで食べることがあった。藍はブラックコーヒーを買って、灰次はホットの甘いやつを買って、それを並んで飲んだ。話すこともあるし、話さないこともあった。
灰次はその時間が好きだった。
好き、という言葉が頭に浮かぶことが増えた。この時間が好き。この場所が好き。この沈黙が好き。
その先に続く言葉を、灰次はまだ言語化していなかった。言語化することを、どこかで避けていた。
ある日、川沿いのベンチで、藍がコーヒーを飲みながら言った。
「灰次って、強いよね」
「……どこが」
「色々削られても、まだここにいるじゃん」
まだここにいる。
その言葉が、灰次にとって意外だった。自分が強いと思ったことは一度もなかった。弱いから削られる。弱いから慣れるしかない。それだけだと思っていた。
「強くないです」と灰次は言った。「藍がいるから、いられるだけで」
言ってから、少し後悔した。
重い言葉だったかもしれない。依存みたいで、みっともなかったかもしれない。でも本当のことだったから、取り消せなかった。
藍は少し黙った。
川の水が流れる音がした。
「……そっか」
藍の声が、いつもより低かった。
「それは」と藍は続けた。「私も、同じかもしれない」
灰次は藍の横顔を見た。
藍は川を見たまま、それ以上何も言わなかった。プルタブを指先で触りながら、何かを考えているような顔をしていた。
同じかもしれない、とはどういう意味か。
藍がいるから灰次がいられる、と言った。では藍の「同じ」は——灰次がいるから藍がいられる、という意味か。そんなはずがない。完璧な人間が、自分みたいな人間に依存するわけがない。
でも藍の声は本物だった。
灰次には判断できなかった。ただ川の音を聞きながら、その言葉の重さを、胸の中で静かに量っていた。
藍は、自分が変わっていることに気づいていた。
気づいていて、止められなかった。
今まで、依存させた人間のことを考えて眠れなかったことは一度もなかった。でも最近、灰次のことを考えながら眠りにつく。明日も会えるか、今日話したことを灰次はどう受け取ったか、下駄箱の落書きは今日もあったか。
そういうことを考える。
考えること自体は、不思議ではないかもしれない。観察対象のことを考えるのは自然だ。でも藍が灰次のことを考えるとき、それは観察ではなかった。
もっと——もっと別の、熱を帯びた何かだった。
川沿いで「同じかもしれない」と言ったのは、計算ではなかった。口が動いた。止める間もなく、言葉が出た。
灰次が「藍がいるから、いられる」と言った瞬間、藍の中で何かが動いた。温かいものが動いた。そんな経験は初めてだった。他者の言葉で、自分の中の何かが動く経験が。
これが何なのか、藍にはわかっていた。
わかっていたから、厄介だった。
今まで藍が標本にしてきた人間たちは、藍にとって愛でる対象だった。壊れそうで、必死で、哀れで、かわいかった。でもそれは標本に対する感情だ。ガラスケースの外から見る感情。
灰次は違う。
いつの間にか、ガラスケースが消えていた。
灰次の話を聞くとき、灰次が笑うとき、灰次が困った顔をするとき、藍はガラスの外にいない。どこにいるかというと——灰次の隣にいる。並んでいる。同じ場所に立っている。
それが、初めてで。
初めてだから、どう扱えばいいかわからなかった。
わからないまま日が経って、感情は育った。育ちながら、だんだんその色が変わっていった。温かい色から、深い色へ。深い色から、暗い色へ。
暗い色になってから、藍は初めて理解した。
ああ、これは——
愛だ。
でも藍の愛は、最初からずっと歪んでいた。歪んでいることを、藍は知っている。知っていて、どうにもならない。
灰次をずっと手の中に置きたい。
ずっと、見ていたい。
ずっと、自分だけのものにしたい。
その「ずっと」を確実にする方法を、藍は十一月の終わりに考え始めた。
十二月の最初の週、藍は灰次に言った。
「今週の金曜日、放課後一緒にいられる?」
「……いられます。どこか行くんですか」
「うちに来て」と藍は言った。「誰もいないから」
誰もいない。
灰次はその言葉を聞いて、少し緊張した。藍の家に行くのは初めてだった。藍がどんな場所に住んでいるのか、どんな部屋にいるのか、今まで想像したこともなかった。
「……行きます」
「うん」と藍は言った。
その笑い方が、いつもより少し違った。
灰次にはその違いが何なのか、うまく読み取れなかった。
読み取れなかったことが、後から思えば、唯一の分岐点だったかもしれない。
金曜日の放課後、二人は藍の家に向かった。
藍の家は駅から歩いて七分の、静かな住宅街の中にあった。外から見ると白い壁の、こぢんまりとした家だった。藍が鍵を開けて、「どうぞ」と言った。
中は、整っていた。
余計なものが何もない。でも無機質ではなくて、本棚に本が並んでいて、小さな観葉植物が窓際にあって、藍の匂いがした。藍の匂い、というのが何なのかうまく説明できないけれど、確かにそこには藍の気配があった。
「座って」と藍は言って、キッチンに向かった。
灰次はソファに座って、部屋を見回した。本棚の本は背表紙が綺麗に揃えられていて、タイトルを読もうとしたけれどよく見えなかった。観葉植物は葉が艶やかで、きちんと手入れされているのがわかった。
藍が紅茶を持ってきた。カップが繊細な模様のついた白いもので、灰次は受け取るとき少し緊張した。
「緊張してる?」と藍は言った。
「……少し」
「うちで緊張されるとは思わなかった」
藍はソファの隣に座った。距離が、図書室のときより近かった。机を挟んでいないから、当然といえば当然だけれど。
紅茶を飲んだ。温かくて、少し甘かった。砂糖は入れていないはずなのに、甘い気がした。
「灰次」と藍が言った。
「はい」
「ここ、好き?」
部屋のことか、と灰次は思った。
「……はい。落ち着きます」
「じゃあ、またおいでよ」と藍は言った。「いつでも」
いつでも。
その言葉が灰次の中に降りてきた。いつでもここに来ていい、という意味か。いつでも藍のそばにいていい、という意味か。
「……いいんですか」
「いいよ」
藍は紅茶を飲みながら、前を向いた。
「ここは安全だから」
安全。
その一言が、灰次の胸の一番柔らかい場所に、静かに沈んだ。
安全な場所なんて、今まで一度も持ったことがなかった。家は安全じゃない。学校は安全じゃない。どこへ行っても、いつ何かが来るかわからなくて、だからずっと身を縮めていた。
でも今、ここは安全だと言われた。
灰次は紅茶のカップを両手で持って、少し俯いた。
目が、熱くなった。
泣くな、と思った。こんなところで泣いたら、おかしな人間だと思われる。でも熱は引かなくて、灰次はただ俯いたまま、唇を噛んだ。
「……泣いていいよ」と藍の声がした。
静かな声だった。
「ここでは、泣いていい」
灰次は泣いた。
声を出さないように、でも涙が落ちるのは止められなくて、ただ俯いたままカップを持ち続けた。藍は何も言わなかった。隣にいた。それだけだった。
それだけが、今まで誰にもしてもらえなかったことだった。
泣き終わってから、しばらく二人でいた。
灰次は少し恥ずかしくて、でも藍は何も言わなかったから、恥ずかしさが長続きしなかった。
窓の外は暗くなっていた。十二月の日暮れは早い。
「帰らなきゃ」と灰次は言った。
「送る」と藍は言った。
「いいです、近いので」
「送る」
繰り返した。有無を言わさない言い方だった。灰次は頷いた。
玄関で靴を履いていると、藍が後ろから言った。
「灰次」
「はい」
「大切にするから」
振り返ったら、藍はまっすぐ灰次を見ていた。
大切にする。
その言葉は、宣言みたいだった。約束、というより、もっと一方的な、強い言葉。
灰次は何も言えなかった。
ただ頷いた。
藍の目が、一瞬だけ、何か違うものを映した気がした。
暗くて、深くて、熱い何か。
でも灰次にはそれが何なのか、わからなかった。
わからないまま、夜の住宅街を二人で歩いた。
コメント
3件
泣いてる灰次ちゃんが可愛らしくて好きです❣️